古代史 景行大王征西

景行大王征西の地を訪ねて

  古代史 景行大王征西の地を訪ねて

 

 


  

           

 


 

           景行大王征西の地を訪ねて

           

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             不知火海  

               

 

 

 

 

               はじめに


 大阪からの出張帰り、伊丹空港を飛び立った機上から何気なく地上に目を落とすと、上空からでも、それと解る大仙陵(伝仁徳陵)古墳が横たわり、よく見ると中小の古墳が巨大古墳を取り巻くように点在している。これまで気付かなかった、これらの古墳群を目の当たりにすると、この様な巨大古墳を築造する程の力を持った大和王権が、何時どの様にして日本列島を統一していったのか興味を覚えた。
 調べてみると、古代において列島統一に乗りだした大王として、景行大王による一連の遠征記事が日本書紀に記されており、中九州に在住する者にとって、それぞれの巡行地は地理的にも近く、馴染み深い地名も多くみられた。それで休暇を利用し遠征記事に示された、これらの巡幸地を訪ねてみることにした。
 実際に巡幸地を訪れると、そこには必ずと言っていいほど古墳が遺され、なかでもドアの鍵穴の形をした前方後円墳と呼ばれるタイプの古墳が遺されていた。この墳墓形式は、大和王権の政治的シンボルとして創出され、三世紀中頃から七世紀にかけて各地域の首長層により造り続けられてきたものである。そこで大和王権が、その地に入ってきた証として最初に築かれた前方後円墳に着目し、これを手掛かりとして古墳の一覧表を作成し、巡行経路と古墳の築造年代を考察してみた。これに付いては、『あとがき』で触れる。
 現在各地で発掘調査が進められ、その際に出土した多くの資料が新聞紙上を賑わしているが、それが何を意味しているのか我々一般人にとって理解し難く、そこでこれらの記事に少しでも興味を持って頂く手助けになればと思い、これまで訪れた巡幸地の写真やそれに伴う資料をまとめてみた。  

 記述に当たって思ったことは、日本の古代史には解らないことが多く、各地に残る古墳でさえ被葬者のはっきりした古墳は希である。また地域により遺された史蹟や伝承に濃淡があり、そのため景行大王の治世に拘るのではなく古墳時代全般を通じ、その地に遺る史跡や伝承について調べ、それを巡幸地順に写真と伴に掲載してみた。また訪れた古墳や神社を始めとした史跡は永い年月を経過し当時の姿を知ることは難しく、そのため想像力を豊かにし当時の姿に思いを馳せる事ができる様、また想像する楽しさを知ってもらう事に重点を置き記述したつもりである。 
 ところで、日本最大の古墳とされる大仙山古墳(伝仁徳陵)は、天皇陵とされ戦前まで上空を飛行することは許されず、そのため巨大古墳の全体像は一般には知られていなかった。それが戦後なり、航空写真による古墳の全景が掲載されると、その巨大さや姿の美しさに人々は驚き衝撃を受けたという。この時、人々に与えたインパクトこそ正に古代を知る楽しみであり、今回少しでもそれを伝えたかったのである。
 そして、これらの史跡は過去から我々への贈り物であり、単に過去を知るということではなく、これらの遺物や伝承が現代とどう繋がっているかを知ることは大切なことである。それは出土した遺物や伝承が、我々のアイデンティティー(居場所感覚)の出発点であり、私達の歴史観の形成に重要な手掛かりを与えてくれるからである。それと同時に、これらの歴史的遺物を目の前にしたとき、歴史的遺産の大切さに気付き、遺された歴史的遺産を未来に伝えようという思いに繋がるのである。
 私もそうであるが、日本人は物事の初めを知ることが好きな民族だといわれる。そのためか古代史に関する記事に関心が持たれ、いまだに人気があるのは『我々日本人は、何時どこから来た何者であるか、また日本という国は一体どうしてできたのか』、という歴史的なアイデンティティーを日頃から気にかけているからである。ところで、江戸時代後期より、その所在地をめぐって論争の続く邪馬台国でさえ、未だにはっきりしない。しかし邪馬台国に関する本は数十冊もの種類におよび、その関心の高さがうかがえる。それは分からないという事が、また楽しい事でもあるからであろう。

 なお、文中における大王の称号については、当時の金石文から古墳時代に天皇の称号は存在せず大王が用いられてた。そのため大王と後の天皇とは意味が異なり誤解を招く恐れがあり、当時と同じ大王と表記することにした。ただし、七世紀後半の持統朝以降については、天皇号が使用されるようになったと考えられ天皇と表記している。
 そして、一連の巡幸記事については、最初のページから順番に目を通すのではなく、巻頭の遠征地図より、興味のある地域から読んでいただければと考えている。その際、各地域における写真も一緒に掲載しているので、写真だけでも目を通していただき、その地の雰囲気でも味わっていただければ幸いである。 

 尚、本文中の写真は現地に赴いて、個人で撮影したものです。

 

 

                                                 景行大王巡行経路

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                                                       目次

      1. はじめに

   2. 景行大王 巡行経路図

      3. 巡行地の状況(第一話~第四十九話)

▼第一話 娑婆県          ▼第二話 周防灘          ▼第三話 岩屋

▼第四話 香春隠神社     ▼ 第五話 鼻垂           ▼第六話 耳垂 

▼第七話 麻剥           ▼第八話 土折猪折          ▼第九話 女王の時代   

▼第十話 長狭県          ▼ 第十一話  碩田国      ▼第十二話  青と白

▼第十三話 七ツ森古墳     ▼第十四話 来田見邑       ▼第十五話 海石榴市  

▼第十六話 城原             ▼第十七話 蜘蛛塚           ▼第十八話 柏峡大野

▼ 第十九話  直入三神      ▼第二十話 高屋宮         ▼第二十一話 熊襲国

▼第二十二話 日向の駒  ▼ 第二十三話 隼人塚       ▼第二十四話 熊襲の穴

▼第二十五話 地下式古墳 ▼第二十六話 薩摩焼酎     ▼第二十七話 火国造 

▼第二十八話 豊国別皇子 ▼第二十九話 日向国         ▼第三十話  丹小裳野  

▼第三十一話 夷守            ▼第三十二話 諸県牛君   ▼第三十三話 熊県   

▼第三十四話  天子神社      ▼第三十五話 水島             ▼第三十六話 鬼の岩屋

▼第三十七話 豊邑            ▼第三十八話 火国          ▼第三十九話 高来県

▼第四十話 津頬             ▼第四十一話 阿蘇国      ▼第四十二話 阿蘇黄土

▼第四十三話 高田行宮     ▼第四十四話 歴木の伝承 ▼第四十五話 腹赤魚

▼第四十六話 八女県         ▼第四十七話 水沼県主     ▼第四十八話 的邑     

▼第四十九話 景行大王   

  4.  前方後円墳一覧

  5.  あとがき

 

                                            

                                                 第一話 娑婆県

 

 十二年の秋(あき)七月(ふみづき)に、熊襲反(くまそそむ)きて朝貢(みつきたてまつ)らず。
 八月(はつき)の乙未(いつび)の朔(つきたち)にして己酉(きいう)に、筑紫(つくし)に幸(いでま)す。       

 九月(ながづき)の甲子(かふし)の朔にして戊辰(ぼしん)に、周芳(すはのくに)の娑麼(さば)に到(いた)ります。

 

 十二年秋七月に、熊襲が背いて朝貢を献らなかった。
    八月の十五日に、天皇は筑紫に行幸された。
 九月の五日に、周芳の娑麼に到着された。

                       

  景行大王の西征において、出発点でもあり本州最後の寄港地となる娑婆(さばの)県(あがた)(山口県防府市)には、初代県主の桑山塔ノ尾(くわのやまとうのお)古墳(六世紀前半・消滅)を始め、歴代首長墓である、高井片山(消滅)、鋳物師大師(いもじたいし)塚、車塚、大日(だいにち)、といった、六世紀前半から七世紀中頃にかけて築造された前方後円墳が展開している。
 この様な首長墓の築造年代に対し、娑婆の地に到着した景行(けいこう)(十二代)やその後、仲哀(ちゆうあい)(十四代)あるいは神功皇后征西の折にも、娑婆に着船し戦いの吉凶を占った(占手神事)という。これらの大王は共に四世紀代の人物と考えられ、大王の在位期間と首長墓の築造時期とが一致ぜず、もし古墳の変遷に重きを置くなら、娑婆の地を別に求めなければならない事にもなりかねない。
 なかでも、最後に築造された大日古墳(全長45m・七世紀中頃)には、近畿の大王陵と同じ竜山石(兵庫県高砂市で産出)による家形石棺が収められ、被葬者として大王家の近親者か、伝承上の琳聖(りんしよう)太子(百済王子)が挙げられている。
 古代瀬戸内海航路は、近畿から九州や朝鮮半島へ移動する際の、海上交通における大動脈であった。しかし六世紀になると古代史上最大の戦いである、「磐井(いわい)戦争」が勃発するなど、その対応を求められるようになった。そこで、九州進出の兵站基地として、新たに王権の直轄地である県(あがた)が開設され、それまで瀬戸内海西部の制海権を握っていた、熊毛王の柳井水道(山口県柳井市)に替え、九州渡海に地理的に有利な娑婆の地に娑婆津(娑婆の港)が開港されたのである。

 そして本州最後の寄港地となった、娑婆の地を権威付けるため、大和王権の大王が寄港したことにしたのであろう。また娑婆の地名も当時、娑婆の地は本州の最西端と考えられていたことから、サワ(さきっぽ)が訛って娑婆(さば)となった。

 また娑婆には景行大王が戦勝祈願したという、周防国一宮玉祖(たまのおや)神社(下宮)が鎮座し、その参道は全長268mに及び、真北の江良山(西目山の左、294mの峰)と真南の田島山の山頂を結ぶ線が、参道と重なる様に配置され北極星(天皇)を崇拝する妙見信仰である。おそらく推古朝に琳聖(りんしよう)太子により江良山頂に上宮が、その後、厄神の杜に中宮が創建され、現在の社は下宮であろう。なお中宮(厄神の杜)は写真のように江良山が背後に来るように配置され、いずれの場合も江良山が強く意識されている。

    (写真をクリックすると拡大) 

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厄神の杜(背後は江良山)  宮城森(行宮跡)     玉岩屋

 そして玉祖神社の北方300mに、景行大王により仮の御所(行宮)が設けられ、その跡地が『宮城森(みやぎのもり)』として遺されている。そこに明治六年、それまで疫神と称する石碑があったが玉祖神社宮司により取り除かれ、『玉岩屋』の修築と併行し「景行天皇行宮舊蹟」の石碑が設置された。 『玉岩屋』は神社の祭神でもある玉祖命の墳墓と伝えられ神社北方600mの所にある。なお、これらの位置関係は『玉岩屋』の写真の左手奥に見える一本の楠が『宮城森』で、その右手の森が玉祖神社である。

 所在地 山口県防府市大字大崎    宮城森  

 連絡先 周防国一宮 玉祖神社
 TEL 0835(21)3915                       

 

                                

            

        第二話 周防灘 

      

  時に天皇(すめらみこと)、南(みなみ)を望(みそこなは)して、群卿(へまつきみたち)に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「南の方(かた)に烟氣多(けぶりさは)に起(た)つ。必(ふつく)に賊在(あたあ)らむ」とのたまひ、則(すなは)ち留(とどま)りて、先(ま)づ多臣(おほのおみ)が祖(おや)武諸木(たけもろき)・国前臣(くにさきのおみ)が祖(おや)菟名手(うなて)・物部君(もののべのきみ)が祖(おや)夏花(なつはな)を遣(つかは)して、其(そ)の状(かたち)を察(み)しめたまふ。
 
 その時、天皇は、南方をご覧になって、群卿に詔して、「南方に煙が多く立っている。きっと賊がいるのであろう」と仰せられ、そこに留まられて、まず多臣の祖武諸木・国前臣の祖菟名手・物部君の祖夏花を派遣して、その状況を視察させられた。

  

                
 ところで、王軍一行は娑婆津を船出した後、九州のどこに上陸したのか書紀に記述がなく、気になるところであるが、行橋市(京)以南とみるのが一般的である。しかし具体的な地点となるといたって曖昧模糊で、現在でも防府から国東半島まで、直線距離で40㎞あまりで、晴れた日には大平山展望台(防府市牟礼)から、対岸の国東半島や九州を見渡す事も可能である。
 日本書紀と同時代に編纂された、豊後国風土記の速見郡(はやみのこおり)に、『景行大王が娑婆津より船出して、海部郡(あまべのこおり)の宮浦に停泊されたと』あり、大分県南海部郡米水津(よのうづ)村宮浦に渡って来たことになっている。しかし、ここは宮崎県との県境に位置し、土蜘蛛(つちぐも)退治やその後の皇軍の進路を考えると宮浦は考えにくい。
 そこで同じ風土記の国埼郡(くにさきのこおり)に、『景行大王が周防国の娑婆津から九州へ渡海する際、豊後を望んで国の岬ではなかろうか』と言ったことから国埼郡の名が起こったという。この地名説話から娑婆津を出港後、国東半島を目指し周防灘(すおうなだ)を横断するコースを採ったとみられる。この場合、周防灘の防府沖から国東半島に向け、流れの速い右回りの潮流により、国東半島より北側の宇佐や中津市あるいは椎田辺りに着船することになる。

 時代は下るが、奈良時代の遣新羅使船団もこの航路で、暴風により遭難し分間浦(わくまのうら)(大分県中津市付近)に漂着した。その時の歌八首が万葉集に収められている。また現在でも、山口市の海岸から釣りに出たゴムボートが風や潮流に押し流され、翌日対岸の福岡県豊前市沖合で漁船に発見保護された事があった。これらは、いずれも周防灘を縦断する潮流により起こった事故であるが、現代のような動力船のなかった時代、九州へ渡海するには国東半島に向かう潮流に載れば容易に渡海できた。
 そして海上交通に用いられた当時の船は基本的に丸木舟であり、丸木舟に船底と舷側版を取り付けた準構造船であった。ところが奈良時代になり、大陸の造船技術を取り入れた板材を組み合わせた構造船が、遣唐使船として用いられるようになると遭難が相次ぎ、以前に比べ大陸の渡るための航海技術が下手になった。 

 この準構造船が、宇土市の方で『大王のひつぎ実験航海』に用いるため復元された。『海王』と命名された古代船は、宮崎県西都原古墳出土の船形埴輪(五世紀)をモデルに製作された準構造船(全長12m・最大幅2m)で、現在、宇土半島の宇土マリーナに展示されている。

 

                      (写真をクリックすると拡大)                        

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                         周防灘横断コース       古代船(海王)

 その後、六世紀になり娑婆津が開港すると、それまでの柳井水道に替わり娑婆津から出港する渡海コースがメイン航路となった。ところで景行大王の治世である四世紀代には、娑婆津はまだ存在すらしておらず、そのため日本書紀が編纂された当時の渡海コースが記されたのであろう。

 室津半島には娑婆津が開設される以前に、瀬戸内海西部に君臨した熊毛王(柳井水道)歴代の墳墓である、大型前方後円墳の白鳥古墳(全長120m・五世紀中頃)や柳井茶臼山古墳(全長90m・四隻中頃)あるいは女王が葬られた神花山古墳が遺されている。

 

  所在地 熊本県宇土市網田町宇土マリーナ  古代船(海王)
  連絡先  熊本県宇土市役所
 TEL 0964(22)1111

       

                             

                         

                             第三話 岩屋

 

   爰(ここ)に女人有(をみなあ)り、神夏磯媛(かむなつそひめ)と曰(い)ふ。其の徒衆甚多(としゅうにへさ)にして、一国(ひとくに)の魁師(ひとごのかみ)なり。


 そこには神夏磯媛という女性がいた。その一族は、はなはだ多く、一国の首領であった。

   

               
 田川市を貫流する、金辺川(きんべがわ)に面して若八幡神社が鎮座し、この神社に神夏磯媛(かむなつそひめ)が地主神として祀られている。
 社記によると、『その後、神夏磯媛の軍功が認められなかったことで、一族の夏羽(なつは)は朝廷に恨みを抱くようになった。そこで、妹の田油津姫(たぶらつひめ)を使って神功皇后の暗殺を企てたが、事前に察知され殺されてしまった。この事から嘘を言って人を騙すことを『誑(たぶら)かす』と言うようになった。妹が殺されたことを知った夏羽は急ぎ逃げ帰ったが、皇后は武振熊(たけふるくま)に追悼させ岩屋(ごおや)(岩屋第一鍾乳洞)に押し寄せた。

    (写真をクリックすると拡大)

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                     岩屋第一鍾乳洞        若八幡神社 

 夏羽は岩屋に引きこもり、大きな石で入り口を塞ぎ出てこず、そこで、岩屋の入り口に薪を積み上げ、それに火を付け皆殺しにした。これにより夏羽村焼といったのを、羽を省いて夏焼(なつやき)村といった。その時、外郭まで焼いたので焼外輪(やきそとわ)という地名もあり、これは宮司家の墓所の字名である。』

 若八幡神社の社記は地名説話となっているが、登場する神功皇后や田油津姫は元々筑後地方に縁のある人物である。それが人の行き来により田川地方にの伝播し、日本書紀の記述と相俟って神社社記の様な説話となったのは明らかであろう。なお社記の岩屋とは、田川市夏吉の岩屋を言っており、ここの鍾乳洞には大小三つの鍾乳洞があり、その中の岩屋第一鍾乳洞が探検コースとして一般公開されている。

 豊前地域には夏吉の岩屋以外にも鍾乳洞は見受けられるが、隣接する須佐神社の存在などから、夏吉の鍾乳洞は磐座信仰における信仰対象そのものであった。そのため古代より崇められ、若八幡神社の社記のような伝承が遺されてきたのであろう。

 社記には、神夏磯媛や夏羽あるいは夏焼村といった、『夏』の文字を含む固有名詞が多く見受けられる。そして夏の一文字を、朝鮮半島では『は』と読むことから、夏羽なる人物は半島では『夏(は)』と表記されたが、九州に渡来すると、夏は『夏羽(なつは)』と二文字の和訓で記される様になった。そう考えると、夏を含む固有名詞は朝鮮半島からの渡来人であったことが考えられる。 
 そして、その名に夏の文字を含む神夏磯媛に付いても、『その一族は、はなはだ多く』と記されているところから、かつての田川一帯は多くの渡来系住民が暮らす地域であったことが分かる。また中国隋からの使者が来朝時(608年)に、筑紫から東に行く途中、風俗が華夏(中国人)に似た人々が暮らす、秦(しん)王国(秦氏(はたし)の国)という国があったことを不審に思い報告している。 

 所在地 福岡県田川市夏吉  岩屋第一鍾乳洞
 連絡先 田川市石炭・歴史博物館
 TEL 0947(44)5745

  

                        

                   

                           第四話 香春隠神社

 

  天皇の使者(みつかひ)至(いた)れりと聆(き)きて、則(すなは)ち磯津山(しつのやま)の賢木(さかき)を抜(ねこじ)にして、上枝(ほつえ)には八握剣(やつかのつるぎ)を挂(とりか)け、中枝(なかつえ)には八咫鏡(やたのかがみ)を挂(とりか)け、下枝(しづえ)には八尺瓊(やさかのに)を挂(とりか)け、亦(また)素幡(しらはた)を船舳(ふなのへ)に樹(た)て、参向(まいでき)て啓(まを)して曰(まを)さく、「願(ねが)はくは兵(いくさ)をな下(くだ)したまひそ。我(やっこ)が属類(ともがら)、必(ふつく)に違(そむ)きたてまつる者(もの)有(あ)らじ。今(いま)し帰徳(まつろ)ひなむ。

 

 天皇の使者がきたことを聞いて、ただちに磯津山の賢木を抜き取り、上の枝には八握剣を挂け、中の枝には八咫鏡を挂け、下の枝には八尺瓊を挂け、また白旗を船首に立てて、参向して謹んで、「なにとぞ兵を派遣しないでください。我が属類には、決して背きたてまつるような者はおりません。今すぐ帰順いたすでしょう。

                 

            
 若八幡神社の伝承として、神夏磯媛は景行天皇を娑婆に迎えに行き、豊前を案内した後ほどなく亡くなったという。そして田川市夏吉に鎮座する、通称『香春隠』と呼ばれる大行事(だいぎょうじ)の森(香春隠神社)が神夏磯媛の陵墓と伝わる。

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     香春隠神社(大行事の森)       清祀殿
 また賢木を抜き取った、という磯津山(しつのやま)とは香春の鏡山のことで、神功皇后が三韓征伐の折にも磯津山に登り、鏡をかけて天神地祇に祈ったことから、山の名を鏡山(かがみやま)と呼ぶようになった。
 ところで、古代における帰順の証として、神夏磯媛のように剣や鏡、玉などの宝物を賢木に掛けて差し出している。この事は地理的にも歴史的にも関係の深かった朝鮮半島を通じて、大陸から九州にもたらされた鏡をはじめとした多くの宝物が、帰順という形で持ち出されたことになり、そのため近畿の古墳から弥生時代の舶載鏡が多数出土するのも肯ける。
 また賢木に取り付けた宝物とは、八握剣(長さが八握りある細身で両刃の剣)、八咫鏡(鏡の周囲が、親指と中指とを広げた長さの八倍の大きさの鏡)、八尺瓊(大きな玉で作った勾玉)の三種で、これは天皇家に古代より伝わる三種の神器と同じである。しかし古代において、剣・鏡・玉の三種の組み合わせは、何も皇室に限ったものではなく、支配者一般の象徴であったと考えられている。

 そして、最初に香春隠神社を訪れたとき、社地が地形的に周りに比べ小高く、神社の御堂には白色をした石の祠が安置されていた。その観音開きとなった扉の右側に三日月が、左には円形(太陽か)が彫り込まれ、神社の社地は古代の占星台跡地と直感した。
 また田川市に隣接する香春は銅の産地で、三ノ岳麓には採銅所の地名や大分の宇佐神宮に奉納する神鏡を鋳造した清祀殿(せいしでん)が再建されている。奈良時代になると、東大寺の大仏鋳造のための銅を供給するなど、香春町(辛嶋郷(からしまのさと))は古代より銅の一大産地であった。  
 その銅山開発や銅の鋳造には、辛嶋氏を始めとした新羅系氏族が携わっていたが、なかには日置(ひおき)氏のように金属精錬の他、日神祭祀や暦(こよみ)の作成を職種とする集団も加わっていた。そのため太陽や月の動きを知る占星台は必要不可欠であり、その跡地と考えられるのが香春隠神社の社地である。
 この神社、江戸時代の文書には『夏磯姫社、旧称香春隠神社』とあり祭神は地主神の神夏磯媛である。それにしても香春隠とは意味深長な神社名であるが、郷土史家の話として、『香春隠し』とは、香春岳により遮られる地域の名称で、『隠し』の付く地域が他にもあるとの事のようであった。
  所在地 福岡県田川市夏吉三八四の二  香春隠神社
  連絡先 田川市石炭資料館
  TEL 0947(44)5745

 

                                                                                

                                                                                             

                                  第五話 鼻垂

 

  唯(ただ)し賊者有(ざんぞくどもあ)り。一(ひとり)を鼻垂(はなたり)と曰(い)ひ、妄(みだり)に名号(な)を仮(か)り、山(やま)谷(たに)に響(とよ)み聚(あつま)り、菟狭(うさ)の川上(かはかみ)に屯詰(いは)めり。


 ただし残忍な賊がおります。その一人を鼻垂(はなたり)といい、みだりに天皇の名を僭称(せんしよう)して、山や谷に人を大勢集め、菟狭の川上に満ちあふれております。

 

                                                                                                            
 鼻垂がいたという菟狭川の川上に位置する安心院には、宇佐神宮の摂社であり菟狭氏が斎祀する古社の妻垣神社が鎮座する。 松本清張は妻垣神社を訪れずれ、『共鑰(ともかぎ)山の磐座(いわくら)(御神体)を信仰の対象とする、最も古い神社の形態を留めている、』と記し、早い時代から宇佐氏により氏神として祀られてきたのであろう。そのため安心院盆地は菟狭氏発祥の地であり、菟狭の川上にいた鼻垂とは大和王権に服属する以前の菟狭氏を指しているとも考えられる。

 そして大和王権が九州進出にあたり、まず最初に瀬戸内海航路の突き当たりに位置する、豊前海から国東半島にかけての一帯を制圧し、ここを橋頭堡として九州進出が始まった様である。そのため鼻垂(はなたり)を始めとする賊がいた豊前・豊後地域には、石塚山古墳(全長110m・苅田町)や赤塚古墳(全長58m・宇佐市)あるいは小熊山古墳(全長120m・杵築市)といった、九州最古級(四世紀初頭)の前方後円墳が遺されている。これらの古墳は平野部を持たない事から、政治的あるいは鉄の生産など特別な理由で築かれ、古墳内部には初期大和王権による、統一の動きを示す多数の三角縁神獣鏡が副葬されている。

 なかでも鼻垂は、菟狭川(駅館川)の川上(安心院)に住んでおり、実際に駅館川東岸の台地上には、この地方を支配した初代菟狭氏の赤塚古墳を始めとした、菟狭氏歴代の川部・高森古墳群(前方後円墳六基)が遺されている。

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 四世紀初頭の前方後円墳       赤塚古墳               妻垣神社上社(御神体)
 これらの古墳に埋葬された被葬者について、日本書紀の神武紀(じんむき)に興味深い記述がある。『菟狭国造(くにのみやつこ)の祖菟狭津彦(うさつひこ)・菟狭津媛(うさつひめ)の二人が、東征途上の神武大王を菟狭川の川上に足一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造ってもてなした。この時、菟狭津媛をお側に仕える、天種子(あめのたねこの)命(みこと)に娶(めあわ)せた。天種子命は中臣氏の遠い先祖である』。

 この記事の意味している所は、初期大和王権による豊前進出に伴い、宇佐の豪族が菟狭川の川上(安心院盆地)でもてなした。その結果、血縁関係を生じさせる程の極めて密接な関係を持つようになったと言うのである。即ち、大和王権に服従しないもの、として捉えられていた土蜘蛛も、実は王権を積極的に受け入れ、その勢力下に加わることで、菟狭地方における盟主としての恩恵を大いに享受したであろう。      

    ところが、あれほど大和王権と密接な関係にあった菟狭氏も、五世紀になると川辺・高森古墳群から古墳の築造が停止してしまう。これは中央政権による政治的再編成が実施されたためと考えられるが、古墳の停止は何も宇佐地域だけの事ではなく、それまで永続的に築かれていた古墳の停止や新たに古墳の系譜が始まるなど、日本列島各地で起こっている。その後、一世紀半の空白期間を経て、最後の鶴見古墳(六世紀中頃、全長31m)が築かれるが、被葬者は同じ首長でも、それまでの菟狭津彦とは系譜を異にすると考えられている。

  住所  大分県宇佐市安心院町妻垣  妻垣神社上社
    連絡先 妻垣神社 (菟狭神社摂社)
  TEL 0978(44)2519 

  

                                           

                     

                               第六話 耳垂

 

  二(ふたり)を耳垂(みみたり) と曰(い)ひ、残賊貪婪(ざんぞくたんらん)にして、屡人民(しばしばおほみたから)を略(かす)む。 是(これ)御木(みけ)の川上に居(お)り。

 

二人目は 耳垂といい、残酷で貪婪で、しばしば人民を略奪しております。この賊は、御木の川上におります。 

 

           

 周防灘に面した豊国では、主立った河川の上流部に大和王権から、賊や土蜘蛛と呼ばれた豪族がおり、各の首長が20~30㎞の間隔を保って地域集団を率いてい た。(下図『豊国の豪族分布図』参照)           

 大分県史・古代史編Ⅰより     

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    豊国の豪族分布図           立羽田の景観(耶馬渓)         かまどヶ岩

    中でも耳垂(みみたり)のいた御木川(山国川)の中流部は、裏耶馬溪と呼ばれ奇岩が林立し独特の景観を呈している。この一帯は、まさに神夏磯媛(かむなつそひめ)の説明通り要害の地であり平野部が少なく、水稲栽培に適さない地帯であった。そのため、ここでは従来からの焼き畑農業による陸稲(熱帯ジャポニカ)が栽培されていた。

 それに対し海岸に面した平野部では、水稲(温帯ジャポニカ)による集約的農業が行われ、水稲栽培が山間部に達したとき、稲作文化の違いから両者の間に軋轢を生じるようになった。その時、平野部では海上交通により、いち早く大和王権に対する情報を得ることができ協力的であったが、山間部では情報も得難く、大和王権に対して服従することはなかった。そのため書紀の中でも、『王命に従わない』という形でのみ意識されるようになり賊と呼ばれたのであろう。

 この様に耳垂のいた要害の地では、農産物が得難く稲作とは別に、『しばしば人民を略奪しており』と記されているところから、鉱山開発が行われていたと考えられる。耶馬渓一帯は大分県全体を占める宇佐火山岩帯に含まれ、その中には金をはじめ銀や水銀といった各種の鉱物が高濃度に含まれている。現在は全て閉山しているものの、昔から鉱山開発がおこなわれ、かつては多くの鉱山が盛んに操業し賑わいを見せていた。

 そのため山国川の川上で行われていた鉱山開発に伴い、工夫として必要な労働者を拉致していたのであろう。人々を略奪し労働力として働かせる奴隷制度は大陸や朝鮮半島の制度であり、この制度の存在から耳垂を首長とする集団は、大陸や半島からの渡来集団であった事を示す傍証となっている。

 また賊と呼ばれた耳垂や鼻垂の名称は、『耳や鼻+垂』で構成され、顔を構成する、耳、目、鼻、口などのパーツは、元々古代朝鮮半島からの外来語である。次の垂(たらし)は、四世紀代の大王に用いられていた尊称であり、第十三代成務(せいむ)は稚足彦(わかたらしひこ)、第十四代仲哀(ちゆうあい)も足仲彦(たらしなかつひこ)と、それぞれ「足」を含み、十二代景行の場合も大足彦(おおたらしひこ)と、やはり足を含んでいる。

 そうすると耳垂や鼻垂の『垂』は集団内における尊称と考えられ、朝鮮半島からの渡来系集団の首長ということになる。そして、彼らは大和王権に関係なく、『みだりに天皇の名をかたり』とあるように、大王の尊称を勝手に使ったため、征伐の対象とされたとの説もある。

 その耳垂が住んでいたとの伝承をもつ『かまどヶ岩』と呼ばれる洞窟が、裏耶馬渓の玖珠町に存在する。この洞窟を訪れたとき、地元の方に伺ったところ、耳垂伝承より後藤又兵衛が隠れ住んだとの言い伝えの方がよく知られている様である。

 所在地 大分県玖珠郡玖珠町大字古後  かまどヶ岩
 連絡先   大分県玖珠郡玖珠町
 TEL 0973(72)1111

 

                         

                        

                              第七話 麻剥 

 

  三(みたり)を麻剥(あさはぎ)と曰ひ、潜(ひそか)に徒党(とたう)を聚(あつ)め、高羽(たかは)の川上に居(はべ)り。四(よたり)を土折猪折(つちをりいをり)と曰ひ、緑野(みどりの)の川上に隠(こも)り住(す)み、独(ひと)り山川(やまかは)の険(さが)しきを恃(たの)みて、多(さは)に人民(おほみたから)を掠(かす)む。

 

 三人目は麻剥といい、ひそかに徒党を組んで、高羽の川上におります。四人めは土折猪折といい、緑野の川上にこもり住み、ひとり山川の険阻な所を頼みとして、多くの人民を略奪しております。

 

                
 麻剥(あさはぎ)の住む高羽川(高羽は田川の古名)とは、英彦山を源流とする遠賀川の支流で、添田町や田川市を貫流する彦山川のことである。彼らは田川郡添田町辺りを本拠地としていた。
 そして、JR西添田駅の西側約500mの丘陵上にある、添田町の庄原遺跡(弥生時代)からは、大陸や半島からの渡来人が関わっていたとされる金属溶解炉跡や、古代中国の礎(そ)で出土する青銅鉇(やりがんな)鋳型が見つかっている。
 ところで、渡来した人々が最初に住み着いた所は、河川上流部の周りを山々に囲まれた、敵に対して見え難い場所が絶対条件であった。そして次第に下流域へ移動していくに従い、文化も発展し大きな集団へと変化していくものである。
 庄原遺跡も遠賀川の上流部に当たり、最初の移住地として適地であった。その後、時代と共に下流域の田川方面へと移動していき、平野部の大きな集団へと脱皮していった。そう考えると、高羽川の麻剥を始めとした河川上流部の賊とは、川下に進出する以前の渡来系集団であった事が考えられる。
 香春岳山麓の鹿春郷(かはるのさと)は、勝(すぐり)の姓(かばね)をつ渡来系秦氏(はたし)の一族である、辛嶋(からしま)氏の本拠地であった。辛嶋郷と呼ばれ、豊前風土記に、鹿春郷に付いて示唆的な記事が載せられている。

 『昔、新羅(しらぎの)国の神が自ら渡来して来て、この川原に住んでいた。そこで神の名も鹿春の神と名付けて呼んだ』。
 この記事から、豊国で栄えた辛嶋氏も渡来してきた当初は、香春岳山麓の川沿いに住む程の集団であったが、当時の先進的な医薬や金属に関する知識と技術を持っていたため神と呼ばれた。その後、辛嶋氏は香春岳の銅生産に携わるなど、次第に勢力を増し山国川を超えて宇佐地域まで進出し、宇佐神宮を建立するまでになったのである。
 朝鮮半島からの渡来者である辛嶋氏のを受け入れたのも、田川(高羽)地方が渡来系の人々が多く暮らす地域であったからで、同様に後に朝廷と深く関わり勢力を拡大させた秦氏が、最初に移住して来たのが豊国にあり、てそこを本拠地としたのも十分うなずける。そして田川地方に暮らす人々の淵源となるのが、麻剥を首長とする集団であり、庄原遺跡を遺した人々であろう。
 一ノ岳の麓に鎮座する香春神社は、一名を新羅神ともいい崇神大王の時代に創建された、新羅の神を祀る古社で辛島氏が奉仕する神社であった。平安時代初期格式も高く、豊前国一宮と考えられる程の大社で、香春岳の、一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳 からなる三連山が香春神社のご神体であった。

 ところが現在、一ノ岳は石灰岩の採掘が進み、上半分が無くなっている。これは香春神社の祭神が朝鮮半島からの外来神であるため、神社の御神体にも関わらず、この様な破壊の及んだとするなら悲しむべきことである。

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                香春岳(三連山)                     香春神社(背後は一ノ岳)

  所在地 福岡県田川郡香春町  香春岳 
 連絡先 香春町役場
 TEL 0947(32)2511

 

                        

                                                      

                       第八話 土折猪折

 

  是(こ)の四人(よたり)は、其(そ)の拠(を)る所並(ところならび)に要害(ぬみ)の地(ところ)なり。故(かれ)、各眷属(おのもおのもやから)を領(つか)ひて、一処(ひとところ)の長(をさ)と為(な)れり。皆曰(みないは)く、『皇命(おほみこと)に従(したが)はじ』といふ。

 

 その四人がその本拠とする所は、みな要害の地であります。それで各々眷属を従えて、一所(ひとところ)の長(おさ)となっております。皆、『皇命には従わない』と言っております。

 

                
 神夏磯媛から賊とされた、最後の土折(つちおり)猪折(いおり)が住んでいたのが緑野川の川上であり、緑野川とは北九州市小倉区を貫流する紫川のことである。この紫川の中流域から上流域にかけて、弥生時代の環濠集落が多数発掘調査されている。なかでも弥生終末期の城野遺跡からは、九州最大規模の方形周溝墓や九州二例目の玉作り工房の跡も見つかり、伊都(いと)国や奴(な)国と同様な、企救半島に企救(きく)国が存在したことが近年の発掘調査から分かってきた。

 そして、土折猪折の名から、土を庵としている猪のような者を思い浮かべるが、この時代の住居は茅葺(かやぶき)きの竪穴式住居であり、この屋根を土で葺いた土屋根の家が一般的であった。土屋根の住居は耐寒性や防風対策上、特に茅は燃え易く防火対策の面からも土で葺き、この土屋根の住居が各地で出土している。
 また出土した土屋根は、考えられていたよりも低く地面と一体化し、地中で暮らしている様に見えることから土蜘蛛と呼ばれたと考えられ、富山県の北代(きただい)遺跡を始め、各地の遺跡で土屋根の住居が復元されている。ところで実際に復元された土屋根の住居入ってみると、思っていたより内部も広く一瞬、冷やっとするくらい涼しく感じられ、まだクーラーのなかった時代、快適で過ごしやすい居住空間であったろう。この竪穴式住居はその後平安時代まで使用され、地域によっては鎌倉時代になっても用いられた。
 土屋根とは別に、 洞窟に住居する人々を土蜘蛛と考える説もある。紫(むらさき)川の源流はカルスト台地の平尾台(ひらおだい)で、ここには国の天然記念物の千仏鍾乳洞を始め多くの鍾乳洞が存在する。なかでも青龍掘(せいりゅうくつ)と呼ばれる鍾乳洞は、当に険阻で近づき難く、そこに住んでいた土蜘蛛を景行大王が成敗したとの伝承や、この後出てくる青と白が住んでいた鼠石窟(ねずみのいわや)にもよく似ており、土蜘蛛は洞窟などを住居としていた人々と考えられていた。
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               青龍窟                     土屋根竪穴式住居           住居内部(北代遺)      青龍掘は平尾台の鍾乳洞の中でも最も規模が大きく、洞窟ホールは普智山等覚寺の奥の院にあたり山伏の修行場になっていた時期もあり、青龍窟入口の祭壇中央には、豊玉姫が祭神として祭られている。そして 青龍窟から東に目を転じると、九州最古級でこの時期としては最大級の石塚山古墳(全長130m・四世紀初頭)が存在する、京都(みやこ)郡苅田町から、その先に広がる豊前海を一望でき、見張台や有事の際における狼煙(のろし)台の設置場所として最適であったろう。

 苅田町一帯は、かつて豊前地方の中心地であった、長峡(ながおの)県(あがた)の一部で、九州で最も早く大和王権を受け入れ、九州制圧の拠点となった地域でもあった。そのため初期大和政権から長峡県主に対し、近畿と九州を結ぶ重要港の草野津(くさのつ)の入り口に、九州進出のモニュメントとして、フランスからニューヨーク(米国)の入り口に、『自由の女神』がプレゼントされたように、大和王権から石塚山古墳がプレゼントされたのかもしれない。 
 所在地 福岡県京都郡苅田町大字山口  青龍窟 
 連絡先 福岡県京都郡苅田町
  TEL 093(434)1111

  

  

       

                        第九話 女王の時代

 

 願(ねが)はくは急(すむやけ)に撃(う)ちたまへ。な失(うしな)ひたまひそ」とまをす。是(ここ)に武諸木等(たけもろきら)、先(ま)づ麻剥(あさはぎ)が徒(と)を誘(をこつ)り、仍(よ)りて赤(あかき)き衣(きぬ)・褌(はかま)と種々(くさぐさ)の奇物(めづらしきもの)とを賜(たま)ひ、兼(か)ねて服(まつろ)はざる三人(みたり)を撝(め)さしむ。乃(すなは)ち己(おの)が衆(しゅう)を率(い)て参来(まいく)。悉(ことごとく)に捕(とら)へて誅(ころ)す。

 

 どうぞ速やかに彼らを討伐してください。決して機を失しないようになさいませ」と申しあげた。そこで、武諸木らは、まず麻剥の徒党をだまし、そうして赤い上衣・褌や種々の珍しい物を与え、併せて帰服しない三人を招いた。そうすると彼らはめいめいの徒党を引き連れてやって来た。それをことごとく捕えて誅殺した。

 


 田川市夏吉に鎮座する若八幡宮には、神夏磯媛(かむなつそひめ)が地主神として祀られており、田川における神夏磯媛や、この後出てくる速見邑(はやみむら)の速津媛(はやつひめ)は共に一所の長(おさ)であったという。古墳時代の半ばを相前後する時期、女王の治める国が各地に出現した。
 豊後風土記の日田郡(こおり)に、『昔、この山に土蜘蛛がいて、名を五馬媛(いつまひめ)といった。これによって五馬山という』。この記事に対応するように、日田市天瀬町の宇土古墳や中尾原遺跡では、小型の円墳(竪穴式石室・五世紀前半)に最初に女性が葬られ、その後に、兄か弟とみられる男性が追葬されていた。
 また海部(あまべ)地方でも、築山(つきやま)古墳(五世紀始)や臼塚古墳(五世紀中頃)から、宇土古墳と同様に男女の人骨が出土し、臼塚古墳の女性には潜水夫特有の外耳道骨腫がみられ、女性首長は豊後水道の海士(あま)であった。
 周防灘をへだてた山口県西部でも、神花山(じんがやま)古墳(全長30m・熊毛郡平生町)、妙徳寺山古墳(全長約30m・山陽町厚狭)、新宮山古墳(全長約36m・山口市吉敷)といった、その時代の在地首長であった女王の墓が、小規模な前方後円墳として瀬戸内海沿岸に沿って築かれている。いずれも五世紀前半の築造で、これら古墳には武器類は見つからず鏡と首飾り、玉類が検出され巫女(みこ)的な人物が葬られていた。 

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    女王復顔像(神花山古墳)              女性が葬られた古墳の出土品

 中でも神花山古墳は、戦時中に高射砲の陣地を構築中偶然発見され、頭骨からの復顔像が資料館に展示されている。被葬者は頭骨の特徴から二十歳代半ばの女性が葬られ早い旅立ちであった。復顔像の髪型は、長い髪を板状に束ねた『太古島田』といい、現代の女性に比べると不思議な髪型である。
 その後、地域を治めていた女王も、五世紀になり大和王権が朝鮮半島に軍事介入するようになると、それまでの宗教的権威による政では対応しきれなくなり、女王が姿を消してしまうことになる。それに代わり、甲冑、刀剣、鉄鏃などの多くの武器を副葬した、軍事色の強い男王による政が始まり、これ以後女王墓は見られなくなる。

 邪馬台国の女王卑弥呼は呪術的権威でもって君臨し、現実の政治は男弟によって補佐されていたという。その古い支配形態の、女王による祭政一致の国々が五世紀始めを相前後する時期に各地に存在し、この様な時代背景の中から新羅出兵を行い、三韓征伐で知られる神功皇后も出現したのであろう。  

 ところで、九州西岸の熊本県宇土半島基部の、向野田(むこうのだ)古墳(宇土市・全長86m・四世紀後半)には、4mの長大な舟形石棺に保存の良い三十歳代後の成人女性が納められ、女王墓でも石棺の外に複数の剣や太刀を副葬していた。(二七話・火国造の写真参照)これは埋葬者を邪悪なものから守る神器として用いられ、この様な副葬品の違いは地域的、あるいは年代的な違いによるものであろう。                     
 また、向野田古墳から南西3㎞の台地上に、不知火海を望むように築かれた装飾古墳の国越古墳(全長62.5m・6世紀前半)には、出土した耳環の数から三人が葬られていたことが分かる。またガラス製小玉は被葬者が女性である事を示し、国越し古墳に葬られた三人の内、少なくても一人は女性であった。(宇土市立図書館郷土資料室で行われた展示会での写真参照)

所在地 山口県熊毛郡平生町平生193の4  女王復顔像
 連絡先  平生町歴史民俗資料館 
 TEL 0820(56)2310

 

  

                                               

       

                        第十話 長狭県

 

 天皇(すめらみこと)、遂(つひ)に筑紫(つくし)に幸(いでま)し、豊前国(とよのみちのくちのくに)の長狭県(ながをのあがた)に到(いた)りまして、行宮(かりみや)を興(た)てて居(ま)します。故(かれ)、其(そ)の処(ところ)を号(なづ)けて京(みやこ)と曰(い)ふ。

 

    天皇は、ついに筑紫においでになり、豊前国 の長狭県に至って、行宮を造営して居住された。よって、その所を名付けて京という。

 

 

 景行大王が行宮(あんぐう)を造営した豊国とは、現在の福岡県京都郡を中心とした行橋市を含む豊前平野をいい、その中でも長狭県(ながおのあがた)と呼ばれる地域が中心地であった。           

    『豊後国風土記』が伝える豊国の由来について、『昔、景行大王が豊国直(とよのくにのあたい)の祖先、菟名手(うなて)が中臣村(行橋市)に至った時に日が暮れ、旅宿することにした。すると夜明け頃に、白鳥が飛んできてこの村に集まった。白鳥はやがて餅になり、さらに数千株の芋草(うも)と化した。菟名手が朝廷に献上すると、大王は喜び菟名手に氏姓を豊国直と賜った。だから豊国というのである。』

 この記事の芋草とは、水田での栽培が容易で、水稲への切り換えが可能な里芋(八ツ頭)が栽培されていた。そして飛んで来た白鳥とは、皮をむき白くなった里芋のことで、餅の様に見えた事からも里芋が植えられ、それが豊かに育つ国(豊国)をいっていると考えられる。
 また松本清張によると、景行大王が行宮を設けたため、ミヤコと名付けた事になっているが実際には逆で、ミヤコという古い地名が人や物の移動に伴って畿内に移っていったのである。つまり京都郡は、大和朝廷のかつての故郷であり、東遷して成立した大和政権の母なる地であることが推測され、京都を皇都として使い始めたのは奈良時代からとされる。
 近年、東九州自動車道建設に伴う、ヤヨミ園遺跡(行橋市延永)の発掘調査結果、この遺跡が古墳時代の港湾施設である事が判明した。かつて草野津と呼ばれ瀬戸内海航路を利用した、近畿地方と九州とを結ぶ九州の表玄関ともいえる重要港であった。当時、行橋平野はまだ形成されず東九州自動車道付近が海岸線であったが、その後、港湾内への土砂の堆積が進み草野津が使用できなくなったため、大橋津への移動を余儀なくされた。
 そして草野津に隣接した標高約25mの丘陵上に、入港した船や湾を見下ろすように、琵琶ノ隈古墳(前方後円墳・四世紀末・全長50m)が築かれた。ビワノクマ古墳は、長尾県の写真の左端の森の中あたりに築かれている。  

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      長尾県(行橋平野)        ビワノクマ古墳
 また、ヤヨミ園遺跡の3㎞西側には、古代交易市場の海石榴市(つばきち)(椿市)をひかえ、草野津で荷下ろしされた交易品が取引され賑わいを見せたであろう。現在でも、海石榴市と草野津の中間に長尾の地名が遺され、この辺りが、かつての長峡県の中心地と考えられてきた。
 白村江の敗戦後(七世紀後半頃)、御所ヶ谷神籠石(こうごいし)が築造され、御所ヶ谷第二東門から長狭県が一望できる。(上の写真)

  所在地 福岡県行橋市行橋平野一帯  長狭県
  連絡先  福岡県行橋市歴史資料館 
    TEL 0930(25)3133

 

 

  

 

                                           

                            第十一話 碩田国

 

 冬(ふゆ)十月(かむなづき)に、碩田国(おほきたのくに)に到(いた)りたまふ。其(そ)の地(ところ)、形広(かたちひろ)く大(おほ)きにして亦麗(またうるは)し。因(よ)りて碩田(おほきた)と名(なづ)く。

 

 冬十月に碩田国に到着された。 その国の地形は広大であって、また美しかった。 よって碩田(おおきた)と名付けた。

 

 

 碩田国(おおきたのくに)の名称は、大和政権にはやくから帰属したことに起因し、当初は国といっても律令時代の郡程度の広さであった。そして、大分と記されオホキダと読み、大分のほうが碩田より古い。
 また、大分・別府地方は、火山活動により古来から地形が複雑で、水田が細分化されてきた。それで大分(多い田)と命名されたともいわれ、日本書紀に記された様な広大な地形ではない。別府市内成の千枚田は、山活動により水田が細分化された、『大きく段(きざむ)』(大分)地形であり大分県を代表する景観である。                                

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              海部地方の大型前方後円墳      内成の千枚田  
 大分には、速吸瀬戸や豊後水道といった、潮の流れの速い難所があり、海部地方(あまべちほう)(大分市から佐伯市一帯)に、この海域を航行する高度な航海技術をもった海人族(あまぞく)がいた。
 そこには、大分県下最大の亀塚古墳(大分市)をはじめ、築山古墳(佐賀関)、臼塚古墳(臼杵市)、下山古墳(臼杵市)といった、四世紀末から五世紀中頃にかけての大型前方後円墳が、海岸部に集中して遺されている。これらは豊後水道において航海に携わった海人の首長墓であり、その中の下山古墳からは、それ自体が 富の象徴であり権威の象徴である、武器や農具など鉄製品の素材としての鉄鋌(てってい)が多く副葬されていた。これらの鉄鋌は鉄の 王国と呼ばれた朝鮮半島南部の伽耶(かや)で生産されたもので、近畿地方の古墳から出土するものと同じものであることから、大和王権から分与されたものか、あるいは、航海技術に長けた海人族(あまぞく)であることから、朝鮮半島に渡り交易により得たのであろう。

 日本書紀(神武紀)に、かつて海部地方の海人が古代史上において活躍したことを示す伝承が載せられている。『神武大王が東征のおり、速吸之門(豊予海峡)に着くと、一人の漁師が小舟で近づき、「私は国神(くにつかみ)で珍彦(うづひこ)と申します、和田浦で魚釣りをしていると、天神(あまつかみ)の御子がおいでになると聞きお迎えに参上しました」と申しでた。そこで大王は漁師を御舟に引き入れ水先案内とし、特に椎根津彦(しいねつひこ)の名を与えた。すなわち、珍彦は倭直(大和の県知事)の始祖である』。

 つまり、この功績により珍彦は倭直(大和の県知事)になったというのである。海部地方の大型古墳の存在はその事を雄弁に物語っている。その後、五世中頃を過ぎると継続的に築造されてきた、海部地方における古墳の築造が停止し、以後この地域は歴史の表舞台から姿を消してしまう。 

 所在地 大分県別府市内成  内成の千枚田
 連絡先 大分県別府市
 TEL 097(534)6111

 

 

    

 

                            第十二話 青と白

 

 速見邑(はやみのむら)に到(いた)りたまふに、女人有(おみなあ)り、速津媛(はやつひめ)と曰(い)ふ。
 一処(ひとところ)の長(をさ)たり。其(そ)れ天皇車駕(いでま)せりと聞きて、自(みづか)ら奉迎(むかへたてまつ)りて諮(まを)して言(まを)さく、「茲(こ)の山に大(おほ)きなる石窟有(いはやあ)り。
 鼠石窟(ねずみのいはや)と曰(い)ふ。二(ふたつ)の土蜘蛛(つちぐも)有り、其の石窟(いはや)に住(す)む。一(ひとり)を青(あお)と曰ひ、二(ふたり)を白(しろ)と曰ふ。

 

 速見邑に着かれると、そこに速津媛という女性がいた。
 一処の長であった。天皇がおいでになったと聞いて、自らお出迎えして語って、『この山に大きな石窟があります。
 鼠石窟(ねずみのいわや)といいます。二人の土蜘蛛がいて、その石窟に住んでおります。一人を青といい、もう一人を白といいます。

 

 

 速見邑は国より小さな邑(むら)と記され、碩田国(大分市・海部地域)の国に対し、速見邑(別府市・日出町・杵築市)は、大分の中の早見という関係であった。
そして青と白の居場所を、『この山に大きな石窟があり』と記され『この山』から、近くに土蜘蛛も住んでいたのであろうが、速津媛が速見邑のどこにいたのか記述がなく、土蜘蛛の住処も不明である。そこで青や白と同時期に成敗された、三人の土蜘蛛に関する墳墓(七ツ森古墳群)が稱疑野(ねぎの)に遺されており、これと築造時期が同じ首長墓を速見邑で探せば彼らの居場所が分かるのではなかろうか。
 竹田市稱疑野の七ツ森古墳群が、四世紀始めの築造であるので、この時代に対応する速見邑における古墳としては、下原古墳(国東市・現在消滅)と小熊山古墳(杵築市狩宿)が挙げられる。いずれも三世紀末~四世紀初頭の築造であり(第五話鼻垂の九州最古級の古墳を参照)、これらの初期古墳を土蜘蛛の青や白に関するものと考えれば、彼らは国東半島東岸いたことになる。
 これらの初期古墳が存在する、国東半島東岸一帯の海岸には無尽蔵ともいえる良質な砂鉄が埋蔵している。中でも奈多・狩宿海水浴場の海岸は、古来より戦後の近年に至るまで永きに渡り、砂鉄が盛んに採取されてきた。現在でも奈多海岸の波打際では、豊富な砂鉄により黒色の縞模様をなし砂鉄の含有量の高さを示している。そしてこの砂鉄に関わっていた青と白は、それまでの賊から土蜘蛛に表記が変わっている。この事から鉄生産に携わる集団を土蜘蛛と呼んだと考えられる。

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          砂鉄により黒色の海岸 市杵島(奈多宮の元宮)     八幡奈多宮  
 この砂鉄を使った鉄の生産が、古代より海岸近くの見立山の麓で盛んに行われ、製鉄時における副産物としての鉄滓(てつさい)が、今でも狩宿トンネル付近のミカン畑で採取される。また狩宿の丘陵地に、奈多海岸に面して築かれた小熊山古墳は、石塚山古墳(苅田町)と同規模の大前方後円墳であるが、背後に平野部を持たないことから、被葬者の力の源泉は、砂鉄を使った鉄の生産に起因すると考えられる。 

 そして、この古墳から見下ろすように海岸中央部に八幡奈多宮が鎮座し、かつては小熊山古墳を祀り、砂鉄による製鉄に関わる人々が斎祀る神社であった。その後、豊前地方の渡来系集団が、奈多地方の砂鉄に触手を伸ばす様になると、その鉄による経済効果により宇佐神宮を出現させたと考えられ、八幡奈多宮と八幡神社の総本山である宇佐神宮の深い繋がりを考えると大いに考えられる話である。奈多神社の沖合約300mの岩礁(市杵島)が、海岸中央に鎮座する奈多宮の元宮で、最初に宇佐神宮の主祭神である比売(ひめ)大神が降臨した所である。 
 所在地 大分県杵築市大字奈多  奈多海岸
 連絡先  きつき城下町資料館
 TEL 0978(62)5750

 

 

 

                     

                         第十三話 七ツ森古墳

 

 又(また)直入県(なほりのあがた)の稱疑野(ねぎの)に三(みつ)の土蜘蛛有り、一(ひとつ)を打猿(うちざる)と曰ひ、二(ふたつ)を八田(やた)と曰ひ、三(みつ)を国摩侶(くにまろ)と曰ふ。
 是(こ)の五人(いつとり)は並(ならび)に其(そ)の為人強力(ひととなりちからこは)く、亦衆類多(またしゅうるいおほ)し。皆曰(いは)く、『皇命(おほみこと)に従(したが)はじ』といふ。若(も)し強(あながち)に喚(め)さば、兵(いくさ)を興(おこ)して距(ふせ)かむ」とまをす。


 また直入県の稱疑野に三人の土蜘蛛がいて、一人めは打猿といい、二人めは八田といい、三人めは国摩侶といいます。
 この五人は、みな生れつき強力で、またその部下も多数おります。皆、『皇命には従わない』と言っております。もし強いて召喚なさるならば、兵を起して妨害するでしょ
う。」と申し上げた。

 

 

 阿蘇外輪山の東麓にあたる、大分県竹田市の稱疑野には、土蜘蛛と呼ばれた打猿(う ちざる)や八田(やた)、国摩呂(くにまろ)という、三人の在地勢力の首長が存在していたことが記されている。これらの土蜘蛛と対応するように、菅生(すごう)台地の石井入口遺跡や、隣接する戸上大地に小園遺跡が遺されている。
 これらの遺跡は、いずれも弥生時代中期から古墳時代始めにかけての高地性大集落跡であり、台地全体を覆うほどの竪穴式住居跡の存在が推定されている。そして菅生台地には、三人の土蜘蛛のものともされる七ツ森(ななつもり)古墳群が遺され、その名称が示す様に元は七基の古墳が存在していたが、現在四基(柄鏡式(えかがみしき)前方後円墳二基、円墳二基)が遺されている。          

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            七ツ森古墳群全景                      C号墳(柄鏡式前方後円墳)  

 なかでも、古墳群中のb号墳(全長47m・柄鏡式前方後円墳)は、豊肥地方最古の前方後円墳である赤塚古墳(宇佐市)と内部構造もよく似ており、前方後円墳の型式を取りながら、古墳内部は弥生時代の箱式石棺であった。この事は弥生時代の首長層が古墳時代になっても、引き続き首長としての古墳を造る様になった事を示している。

 また、両古墳の築造年代も大差なく四世紀初である事から、大和王権が九州制圧に伴い、まず最初に初期古墳(第五話鼻垂を参照)が遺されている、豊前地方や国東半島を手中に収めたと考えられる。そして、この地域を橋頭堡として時期をおかず、一気に九州山地の奥深い地域にも拘わらず、三人の土蜘蛛がいた直入地方(竹田市)を制圧したと考えられる。

 地元伝承として、王軍が直入まで進軍してきた時、ここ稱疑野(ねぎの)までは攻めと来ないだろうと油断し、寝ていたところを襲われ討ち取られてしまった。その土蜘蛛の墓が菅生台地の七ツ森(ななつもり)古墳であり、また墳墓の形(前方後円墳)から王軍の墓とも言われてきたが、前方後円墳の存在は在地勢力が大和王権に組み込まれたことを示すものである。そして大和王権にとって直入の先に繋がる阿蘇や肥後を始めとした有明海沿岸地域の平定には、交通の要所に位置する菅生台地一帯を勢力下に置くことが、欠かせないほど重要な地域と考えられていた。 

 菅生大地の石井入口遺跡を始めとした大野川上流地域の弥生後期の遺跡からは鉄器の出土が多く、北部九州を中心とするネットワークを通じて鉄を得る際の、構成集団の証である鏡片が複数発見されている。これに対し、同じ阿蘇外輪山の麓でも熊本県北部の遺跡は、大野川上流地域と同様に鉄器の出土量が多いことで知られ、なかでも大津町の環濠集落である西弥護免(にしやごめん)遺跡からは、300点に及ぶ大量の鉄器の出土し、火災の跡などから戦いがあった考えられている。

 このことから、魏志倭人伝に記された北部九州の邪馬台国と、その南にあった狗奴国が想定され、明治十年の西南戦争における激戦地であった、熊本県北部の田原坂から阿蘇にかけての山間部の丘陵地帯が両国の国境地帯であった。そう考えると、この国境地帯を挟んで両者が相対峙し、大量の鉄器の出土地は当時の両国における最前線基地ではなかろうか。

 所在地 大分県竹田市大字戸上  七ツ森古墳
 連絡先  大分県竹田市役所
 TEL 0974(63)1111

 

 

 

        

                          第十四話 来田見邑

 

 天皇、悪(にく)みたまふも進行(いでま)すこと得(え)ず。即(すなは)ち来田見邑(くたみのむら)に留(とどま)り、権(かり)に宮室(みや)を興(た)てて居(ま)します。
 仍(よ)りて群臣(へまつきみたち)と議(はか)りて曰(のたま)はく、「今(いま)し多(さは)に兵衆(いくさども)を動(うごか)して、土蜘蛛を討(う)たむ。若(も)し其(そ)れ、我(わ)が兵(いくさ)の勢(いきほひ)に畏(おそ)りて山野(やまの)に隠(かく)れなば、必ず後(のち)の愁(うれへ)を為(な)さむ」とのたまふ。


 天皇は、これを憎み嫌われたが、お進になれなかった。そうして来田見邑に留り、行宮を建てて、そこに住まわれた。
 そこで群臣と謀って、「今、多くの兵士を動かして、土蜘蛛を討伐しよう。もし、我が兵の勢力に恐れをなして山野に隠れてしまったならば、必ず後の憂いとなるであろう」と仰せられた。

 

 

 竹田市久住町仏原に鎮座する宮処野(みやこの)神社が、来田見邑(くたみむら)の行宮とされ、この地の女性が宮中の女官である采女(うねめ)として、嵯峨天皇に仕えたことから天皇が合祀され古くは嵯峨宮と呼ばれた。そのため宮処野神社の擬山陵(ぎさんりよう)石碑や、神社の周辺を宮園、宮司宅の屋号も宮園というのは、嵯峨天皇が合祀されている事に由来する。

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          宮処野神社       竹田(直入)史跡の位置関係   

 近年の久住町仏原一帯における、圃場整備に伴う発掘調査の結果、神社の西約500mの都野原田遺跡で、前方後方墳(三世紀中頃・26m)と前方後円墳(四世紀始・37m)とが確認され、他にも大集落跡や同時期の集団墓も存在することが分かった。

 そして今回確認された古墳群の存在により、直入地域における前方後円墳群は菅生大地の七ツ森古墳の二ヶ所となり、豊後国風土記に記された直入についての記述も、この二ヶ所に多くを割いていることから、この地域が直入の中心地であった。そして宮処野神社の社地は古墳群の墓守が住んでいた所で、そこには何らかの宗教施設が存在し、それが後に祖霊を祀る神社となり、さらに来田見邑の行宮とされたのであろう。また七ツ森古墳群と稱疑野神社の関係についても、宮処野神社と同様の経緯を歴たものと考えられる。

 その後も宮処野神社を中心に、参道に市が立つなど中世まで繁栄し、豊後国志(こくし)に記された行宮に関する地名の『市』や『古市』『仏ノ原』等は、この時期に由来するものと思われる。

 風土記の救覃郷(くたみのさと)に、『景行天皇がおいでになった時、お食事係が御飲物にと、この村の、泉の水を汲ませると蛇龍(おかみ)がいた。天皇は「きっと臭いがするはずだ。決して使ってはならない」、と言われ村の名を臭泉(くさいづみ)とした。今、訛って救覃郷という』。
 古老の話では、この臭泉の記事になぞらえ、戦前まで宮処野神社の私有田であった泉から湧き出す清水を、神社祭事の時に御供水(おそなえみず)として用いてきた。泉のある区画に縄を張り、由緒ある所として保護されてきたが、風土記の臭水(臭泉)は臭いがして御供水に適さず、私有田から湧き出す清水とは別物であり現在、臭水(くさみ)の場所は不明との事である。 
 古墳時代、浄水を用いた祭祀は支配者層にとって重要な政(まつりごと)であり、各地で浄水を得るための木桶で水を流す導水施設が出土している。風土記の臭泉も祭祀に関わるものと考えられが、その浄水が景行大王(大和王権)により『決して使ってはならない』と、救覃郷自体が否定されているのである。
 この事と、都野原田遺跡での早い時期における古墳の破壊との間に、何らかの因果関係があるとするなら磐井戦争(527年)が考えらる。書紀に、この戦いで火国や豊国が筑紫磐井側に付いた様に記され、これらの地域では首長墓の破壊や前方後円墳の築造停止など暗い影を落としている。 
 所在地  大分県竹田市久住町大字仏原字市  宮処野神社
 連絡先  大分県竹田市役所
 TEL 0974(63)1111

 

 

 

         

                            第十五話 海石榴市

 

 則(すなわ)ち海石榴樹(つばきのき)を採(と)りて椎(つち)を作(つく)り、兵(つはもの)にしたまふ。因(よ)りて猛(たけ)き卒(いくさ)を簡(えら)ひ、兵(つはもの)の椎(つち)を授(さづ)けて、山を穿(うか)ち草(くさ)を排(はら)ひ、石室(いはや)の土蜘蛛(つちぐも)を襲(おそ)ひて、稲葉(いなば)の川上(かわかみ)に破(やぶ)り、悉(ことごとく)に其(そ)の党(とう)を殺(ころ)す。血流(ちなが)れて踝(つぶなぎ)に至(いた)る。
 故(かれ)、時人(ときのひと)、其(そ)の海石榴(つばき)の椎(つち)を作(つく)りし処(ところ)を海石榴市(つばきち)と曰(い)ふ。亦血(またち)の流れし処(ところ)を血田(ちた)と曰ふ。


 そこで海石榴(つばき)の樹を採って椎を作り、それを武器とされた。そうして勇敢な兵卒を選抜して、兵器の椎を授けて、山を穿ち草を払って、石室の土蜘蛛を襲撃し、稲葉の川上で打ち破って、ことごとくその徒党を殺害した。血は流れて深さ踝に及んだ。
 そこで時の人は、その海石榴の椎を作った所を海石榴市といった。また血の流れた所を血田といった。

 

 

 福岡県行橋市の海石榴市(つばきち)について、江戸時代の天保年間に刊行された名所図会(めいしょずえ)に、『古(いにしえ)は殊(こと)に聞こえし市なりしとぞ』とあり、本来、海石榴市とは古代における市で物々交換の場であった。
 ところが海石榴市とは、『海石榴(つばき)の樹で椎(武器)を作った所』と記され、日本書紀の編纂された頃には、既に地名のもつ本来の意味も解らなくなっていたのであろう。この記事によるものか、奈良東大寺より袈裟の染色に用いる椿の葉を、白仁地区まで採取に来、竹田で染め上げるなど白仁地区と椿の関係が強く意識されている。     

 豊後国志では、『海石榴市は白丹(しらに)稲葉の後山にあり』と記され、『稲葉川源流の碑』近くの後山にある椿山地区を海石榴市と考え、この山上に後山神社があり景行を祀っている。なお後山の近くに『稲葉川源流の碑』書かれた石碑があり、その後方を稲葉川が流れ、高さ10mの滝となり、ここから城原神社の近くを下り、岡城付近で大野川に合流する。                

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       稲葉川源流の碑                                阿蘇黄土(1.7㎏)

 しかし当時の海石榴市は、菅生台地に隣接した稱疑野北方四㎞の地点であり、東に向かえば大分や海部地方に、西は阿蘇カルデラを通って火国へ出ることができた。また南の襲国(そのくに)の西都原や北は日田を経て北部九州へと繋がり、海石榴市は陸上交通の要に位置していた。
 そのため交易市場には最適地であり、鉄器や阿蘇カルデラ内で産出する阿蘇黄土(褐鉄鉱)が盛んに取引されたであろう。地名の白丹は、丹が濃い赤みを帯びた辰砂(しんしや)を意味することから、白丹とは焼成し赤色のベンガラに変化する前の、阿蘇カルデラ内で産出する阿蘇黄土のことで、それが白丹(海石榴市)で盛んに取引されていたのである。熊本県下の古墳に用いられた朱色塗料は、当時貴重であった辰砂(硫化水銀)ではなく、簡単に入手できる阿蘇黄土によるベンガラがほとんどである。

 丹(朱)は神聖なものと考えられ、弥生時代末期から古墳時代前期をピークに古墳内部に塗られた。この時期、菅生台地でも石井入口遺跡や隣接する戸上台地の小園遺跡を始めとし、台地を覆うほどの大集落を形成していた。そして、その大集落の出現をを可能にしたのが阿蘇黄土(白丹)の交易であった。

 その交易品である阿蘇黄土を調達し市場を取り仕切ったのが、稱疑野にいた打猿を始めとした三人の土蜘蛛であり、カルデラ内の阿蘇黄土を、外輪山を越え交易市場の白丹まで運ぶなど、交易システムができあがっていた。そして、それに携わっていたのが、菅生台地の人々であった。

 その阿蘇黄土も五世紀に入ると、古墳を始めとしたベンガラの使用が下火になり、それに伴い菅生台地の人々も水田耕作に適した沖積平野へと移動していった。そしてベンガラの使用が停止する六世紀になると、人々も台地上から姿を消した。
 ところで椿は南から日本列島に持ち込まれ、当時は珍しく椿を目印に市場が開設される場所とした。この事から椿の市(海柘榴市(つばいち))と呼ばれる様になり、古代の交換経済における実施場所で各地にその名を留めている。その後、暦による日付の知識が一般化すると、日時をきめて市が開催されるようになり、二日市、四日市、五日市等の地名がその起こりである。

 所在地  竹田市久住町白丹稲葉地区梅の木 源流の碑
 連絡先  大分県竹田市役所
 TEL 0974(63)1111

 

 

 

        

        第十六話 城原

 

  復打猿(またうちさる)を討(う)たむとして、径(ただち)に稱疑山(ねぎやま)を度(わた)る。時に賊虜(あた)が矢(や)、横(よこしま)に山より射(い)る。宮軍(みいくさ)の前(まへ)に流(なが)らふること雨(あめ)の如(ごと)し。天皇(すめらみこと)、更(さら)に城原(きはら)に返(かへ)りて、水上(かはのほとり)にト(うら)へたまふ。便(すなはち)ち兵(いくさ)を勒(ととの)へ、先(ま)づ八田(やた)を稱疑野(ねぎの)に撃(う)ちて破る。

 

 また、打猿を討伐しようとして、ただちに稱疑山を越えた。その時、敵の矢が横ざまに山から飛んで来た。矢は天皇軍に雨のように降りかかった。天皇はさらに城原に帰り、川のほとりで占いをされた。それから軍を整えて、まず八田を稱疑野で打ち破った。

 

 

 城原(きばる)を訪れた時、『キハラ神社は何処ですか』と尋ねたところ、『キバル神社ですね』と確認され、ここでも原をバルと発音することを知った。原はハラとしか読まず、原をバル、或いはパルと読む地域は、かつて朝鮮半島からの渡来系集団が住んでいた所と言われ、田原坂(熊本県)や前原(福岡県)、西都原(宮崎県)など、九州管内には原をバルと読む地名が多い。
 そして、城原八幡社の主祭神が景行の他に、五世紀初めの応神や神功を含んでいる事から、この時代になると朝鮮半島から多くの移住者が渡来し、応神や神功を御旗に掲げ、このような九州山地の奥深くまで進出して来たのであろう。その事は、竹田市内に点在する古墳の築造年代が五世紀中頃である事でもうかがえる。

     (写真をクリックすると拡大)

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               城原八幡社        景行天皇行宮跡

 直入郡志城原の条に、『木原は木原村字礎にあり、俗に松原と称す。景行天皇の行宮跡にして、天皇を祀れる県社城原神社の社地である。城原は木原とも書き、その古音はおそらくキムレ(騎牟禮=騎群)と同一、もしくは近似音のコモリ(コホリ)と相通じ、郡村または城下の意味を有したものである』と記されている。
 これについて、歴史研究家に尋ねたところ、牟礼(むれ)は古代朝鮮語で山を表すが、同時に水(ムル)からでた派生語でもある。人や獣は水に群がるものであり、水が確保できないと村はできなず、そう考えると城原は貴牟礼(きむれ)で貴い水と考えられ、棚田を潤す灌漑用水や生活用水が豊富得られる土地柄を表現しているのであろう。

 人々は山から水が麓に流れ出し、あるいは地下水が滾々と湧き出すのを見て、神が宿る存在として祀り続けた。干魃でも枯れる事がなく稲作に適しまた兵力が調達できる、そんな土地柄を表現するのが城原だった。ちなみに直入は現在の竹田市全域を含む地域であり、韓国語で直訳すると『出てくる日(日の出る方向)』との説明であった。

 これらの地域は、九州山地中央部にも関わらず、弥生時代より阿蘇黄土が取引されるなど交通の要衝であったことから、土蜘蛛が居なくなった律令時代になっても、官道や県そして屯倉が設置された。なお直入の中心は官道に置かれた直入駅や屯倉の存在などから竹田市三宅が考えられ、現在でも書紀に記された、稲葉川や城原、白仁や稱疑野そして柏原など多くの地名が遺され交通の要衝であった事がうかがえる。また景行大王の九州遠征を通じ、軍団同士の戦いは、ここ稱疑野周辺だけである。
 そして城原神社近くに小学校があり、その横の高台に文久三年(1863年)と彫られた鳥居と「景行天皇行宮跡」の石碑がある。この鳥居もそうであるが、訪れた神社の石碑や鳥居には江戸時代末期の元号が記され、この時代に本居宣長をはじめとした国学が盛んになったことに起因するのであろう。
  所在地 大分県竹田市大字米納  城原神社
 連絡先  大分県竹田市役所
 TEL 0974(63)1111

 

 

 

      

        

                            第十七話 蜘蛛塚

 

 爰(ここ)に打猿(うちさる)え勝(か)つまじと謂(おも)ひて、服(まつろ)はむことを請(ねが)ふ。然(しか)れども聴(ゆる)したまはず。皆(みな)自(みづか)ら澗谷(たに)に投(おち)りて死(し)ぬ。


 ここに至って打猿はもはや勝つことができないだろうと思い、降伏することを願い出た。しかしながら天皇は許されなかった。彼らはみな自ら澗谷(たに)に投身して死んだ。

 

 

 打猿を始めとした土蜘蛛は、王軍に対し地形を利用したゲリラ戦で、一旦城原まで撤退させるほどの善戦を見せるが、最後は谷に身を投げている。確かに菅生台地を始めとした台地上は、小川が深い谷を形成し投身するには十分な落差があり、これは実際に、この地を訪れた者でないと書けない記事である。

 現在でも標高500mに位置する台地上では、川は深く刻んだ谷底を流れ水稲栽培への利用は難しく、畑作による白菜やキャベツなどの高冷地農業が行われている。 

 菅生台地には蜘蛛塚が存在する。この蜘蛛塚について、直入郡志に『菅生村菅生の北方塚原にあり、塚上には小篠(笹)が群生す。一書に、血田(ちだ)の北に古塚在り蜘蛛塚という、賊を殺し埋めた所である。また直入郡村誌に、高さ二間(3.6m)、周囲一五間(27m)の楕円状をした小丘なり』。と記されている。

 この他、稱疑野(ねぎの)神社正面の谷筋が血田で、そこを上った所に土蜘蛛の地名が遺されている。また稱疑野神社の東400mの所に、文化年間に正三位、富小路貞直による書「景行天皇行宮址」と彫られた石碑がある。以前は玉垣のある立派なものであったが、現在は水田の片隅に移築されいる。

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  稱疑野の行宮石碑    蜘蛛塚(菅生大地)    蜘蛛塚(瀬高)     

 ところで、この蜘蛛塚が、神功皇后にまつわる伝承も多く縁も深い筑後地方の、みやま市瀬高町にも存在する。案内板によると景行大王の征西時、この地方の朝廷に従わない者を征伐して首長をここに葬った所だとされ、一説に田油津媛の墓ともいう。かつては女王塚と言っていたが、後世に蜘蛛塚(大塚)と改めた。昔は雨が降るとこの古墳から血が流れると言われていたが、石棺内の朱が流れ出していたのだろう。元は前方後円墳であったが、その後の人の手による改変が進み、古墳の主体部の上に写真のような小さな地蔵堂が設置されている。

 菅生大地の蜘蛛塚に行くには、道の駅「すごう」から徒歩で国道を、七ツ森古墳群の方向に1㎞下り、そこを左折し小さな農道をまっすぐ杉林の方に進むと突き当たりに、一段下がって一軒の空き家がある。その家の正面に広がる杉林の中に蜘蛛塚がある。最初に訪れた時は、踏み分け道が存在し簡単に行くことができたが、その後は訪れる人もなく草木が生い茂り近寄ることもできなかった。蜘蛛塚も当初より写真の様に荒れるがままに放置され、早急に保護する必要がある。

  所在地 大分県竹田市菅生大字塚原  蜘蛛塚
 連絡先  大分県竹田市役所
 TEL 0974(63)1111

 

 

 

      

        第十八話 柏峡大野

 

 天皇、初(はじ)めに賊(あた)を討(う)たむとして、柏峡(かしはを)の大野(おほの)に次(やど)りたまふ。其の野に石有(いしあ)り。長さ六尺(むさか)、広さ三尺(みさか)、厚さ一尺(ひとさか)五寸(いつき)なり。天皇、祈(うけ)ひて曰(のたま)はく、「咲(われ)、土蜘蛛を滅(ほろぼ)すこと得(え)むとならば、将(まさ)に茲(こ)の石を蹴(く)ゑむに、柏葉(かしはのは)の如(ごと)く挙(あ)がれ」とのたまふ。因(よ)りて蹴(く)ゑたまへば、柏の如くにして大虚(おほぞら)に上(あが)る。故(かれ)、其の石を号(なづ)けて蹴石(くえし)と曰(い)ふ。


 天皇は、初め賊を討伐しようとして、柏峡の大野に宿られた。その野に石があり、長さは六尺(1.8m)、広さ(幅)三尺(0.9m)、厚さ一尺五寸(0.45m)であった。天皇は祈誓(うけい)をされて、「私が土蜘蛛を討滅できるのであれば、この石を蹴る時に、石よ、柏の葉が舞い上がるようにして舞い上がれ」と仰せられた。そうして蹴られたところ、柏の葉のように大空に舞い上がった。それで、その石を名付けて蹴石(くえし)という。

 

 

  柏峡大野(かしわおのおおの)での記述は、土蜘蛛征伐に先立ち大石を蹴り上げるといった唐突な話で、石の大きさが、長さ六尺(180㎝)広さ(幅)三尺(90㎝)厚さ一尺五寸(45㎝)と当に大石であり、これを蹴り上げることなど不可能な話である。
 そのため、この大石(蹴石)は元々土蜘蛛が神として祀ってきた御神体であったが、その大石を蹴り倒すことができるかどうか、戦勝を占った結果、勝利の神託を得ることができたというものである。
 従って、柏峡大野とは直入中臣神社(石上大明神)の鎮座する阿蘇野を指し、阿蘇野は現在由布市に含まれているが、かつての直入の範囲は竹田市を中心に、豊後大野や湯布院の一部をも含める広範囲な地域の呼び名であった。そして最近の考察の結果、豊後風土記に柏峡と音のよく似た柏原郷(かしはばる)が記され、現在も竹田市荻町に柏原地区が存在し、そのため柏峡大野とは荻町から菅生一帯にかけての地域と考えられている。

 ところで中臣神社の祭神でもある、石を信仰対象とするのは、石を舟の碇(いかり)とする海人族の文化を感じさせ、蹴石を彼らの宗教的施設と考えると、直入の土蜘蛛は海人族(隼人)であったことが考えられる。この他に石を御神体とする神社として、鵜戸神社(宮崎県日南市)や、かつて隼人の宗教施設であった、石體(せきたい)神社(鹿児島神宮内)の御神体は石である。

 そして石體神社の境内に積まれた拳大の丸石を御守りとして持ち帰ると、安産にご利益があると伝わり、石を一つ持ち帰ると二個の石を返す仕来りになっている。この様に石を御神体とする神社は、いずれも子授けや安産をはじめ豊穣をもたらす神として祀られている。     

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      石體神社(安産の御守り石)    蹴石(直入中臣神社)
 ところで、南九州から遠く離れた山中の直入に隼人がいたのであろうか。神功紀に、仲哀(ちゆうあい)大王が筑紫の香椎宮(福岡市東区)で急死したのは、一説に熊襲の矢に当たことが原因とも記され、熊襲は南九州だけでなく北部九州にもいたのである。そのため直入中臣神社辺りにも存在していた事が十分考えられる。なお古事記には熊襲の後裔が隼人と記されている。

 中臣神社参道の鳥居には、石上大明神と記された神額が取り付けられ、参道を上がると屋根が設置された御神体の大石が鎮座している。その近くには割れた多数の大石が散乱し、戦勝を占ったという柏峡大野の地での神事を彷彿とさせる。そして中臣氏が宮中神事を司る卜占(ぼくせん)集団であることを考えると、中臣神社での戦勝占は場所としても相応しい。
 また豊後国志の『直入中臣社が朽網(くたみ)(由布市庄内町阿蘇野)にあり、石を祀って神とし石上明神と詠んでいる』、この記事から直入中臣神社が柏峡大野の地と考えられてきた。しかし直入において、中臣神社のような巨石が見られる所は何もここだけではない。

  所在地  大分県由布市庄内町阿蘇野  石神神社
  連絡先  大分県竹田市役所
 TEL 0974(63)1111

 

 

 

      

        第十九話 直入三神

 

 是(こ)の時に祈(いの)りまつる神は、則ち志賀神(しがのかみ)・直入物部神(なほりのもののべのかみ)・直入中臣神(なほりのなかとみのかみ)、三神(みはしらのかみ)なり。


 この時にお祈り申し上げた神は、志賀神・直入物部神・直入中臣神の三神である。

 

 

 直入で、土蜘蛛退治に先立ち祈った三神(志賀神、直入物部神、直入中臣神)とは、その名から土着の神とは考え難く、近畿地方の豪族が奉じてきた勧請神と考えられ、これらの中央豪族が中心になり支配地の拡大を目指し、九州覇権を推し進めた事がうかがえる。律令的な国家体制が成立する以前、これらの中央豪族にとって支配地からの収入が彼らの持つ力の源泉であり、それが政治的権力の保持を可能とした。
 そして、かつての直入の範囲は直入三神の鎮座する現在の地名が示すように、竹田市を中心に豊後大野や湯布院の一部をも含める広範囲な地域を指していたが、その多くは山間部であり、そこから得られる稲作を中心とした農産物には限りがあった。そのため豊後国風土記に記された直入の、こじつけ地名説話に、真っ直ぐな大きな桑の樹があったことが記され、桑の木から渡来人が持ち込んだとされる養蚕や機織りが行われていたのである。そして神社を中心に各の豪族が開発を推し進め、稲作に向かない丘陵地では養蚕のための桑が植えられ、そのため竹田市の地名には桑原など、桑の付く地名が多く見受けられる。

 ところで直入と言う地名、韓国語で『火の出る方向』という意味であるから、直入の地を東に望む事ができるのは九州の西側に位置する阿蘇や火国がそれに該当する。九州西側から近畿地方に行くには、九州中央部を横断し大分に出なければならず、その後、大分から船路で豊後水道をぬけ、波静かな瀬戸内海を利用し近畿に向ったのである。そのため、途中に位置する直入は中継地として重要であり、特に阿蘇カルデラ内へは、東の直入側から出入りしていたため、これら九州西側の地域では直入を強く意識し直入と呼ばれたのであろう。 

 時代は下るが江戸時代、肥後藩では参勤交代時これと同様なコースを利用し、熊本城を出発した後、阿蘇を通って直入に入り、そのまま大分の隣に位置する豊後鶴崎に到着する豊後街道と呼ばれるコースを採っていた。

 ところで、古代の直入における中心地はどこであったのか。前方後円墳の存在や遺跡などから、まず菅生大地一体の稱疑野が考えられ、次に宮処野神社を中心とした地域が考えられる。また豊後風土記の記述も日本書紀の記事を踏襲しながら、稱疑野と宮処野に関係する記事がその多くを占め、当時の中心地であった事を後押ししている。その後、律令時代に入ると中心地も、駅や屯倉の置かれたと推定される現在の竹田市三宅周辺に移ったと考えられる。
 実際に宮処野神社の鎮座する久住町を訪れてみると、山林と川沿いに狭い水田が続く景色の中に、長湯温泉と呼ばれる小規模な温泉が点在している。この様な山深い山中にありながら采女を輩出するなど、にわかに信じがたい話であるが、当時の直入は決して閉鎖された社会ではなかった。陸上交通の要衝であり中央の情報にも明るく開明的な地域であったのである。(第十四話 来田見邑の古代道を参照)      

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 籾山八幡社の大ケヤキ   志加若宮神社石碑 中臣神社(石上大明神の神額) 

 
                   直入三神の比定社 (豊後国志)
  志我神    志加若宮神社   大分県豊後大野市朝地町宮生
  直入物部神  籾山八幡社    大分県竹田市直入町長湯 
  直入中臣神  直入中臣神社   大分県由布市庄内町阿蘇野

  所在地  大分県豊後大野市朝地町宮生   志加若宮神社
 連絡先  大分県豊後大野市役所
 TEL 0974(22)1001

 

 

      

                        第二十話 高屋宮

 

 十一月(しもつき)に日向国(ひむかのくに)に到(いた)り、行宮(かりみや)を起(た)てて居(ま)します。是(こ)を高屋宮(たかやのみや)と謂(い)ふ。


 十一月に日向国に着いて、行宮を造営してお住みになった。これを高屋宮という。

 

 

 景行大王が六年を過ごした高屋宮(たかやのみや)の高屋とは、広辞苑に『高楼(こうろう)のことで、高く構えた家』とあり、男狭穂塚(おさほづか)の陪塚(ばいづか)出土の子持家形埴輪(五世紀始)も、中央の入母屋造りの両脇の屋根が斜め上に高くせり上がり、まさに高く構えた家である。
 また伊勢神宮を始め多くの神社では、高欄を高く構え装飾的な面が重視されているが、これは仏教が伝来し華美な仏閣に対する対抗上のもので、元は建物の構造材として高欄を高くする必要があった。この時代、一般的な住居は縦穴式住居で、高屋宮のような建物は特別な宗教上の施設であったと考えられる。
 高欄を高く構えた子持家形埴輪は、大正元年に発掘されたもので全体の三割程度の破片であったが、東京国立博物館において復元された。このような家形埴輪は他に出土例がなく、そのため風景として絵画のように目に映る五軒の家を、埴輪で表現したとの説もある。西都原古墳群からは、この他にいくつもの切妻家形埴輪が出土し、復元され東京国立博物館に所蔵されている。これらの家形埴輪は、古代中国における江南地方の切妻住居に類似しており、日向とこの地域との関連性をうかがわせる。
 これらの埴輪は、男狭穂(おさほ)塚、女狭穂(めさほ)塚が築かれた期間だけに製作され、その技術が継承されることはなかった。この事から、男狭穂・女狭穂塚の巨大古墳は、大和から古墳造りの技術集団が遣され、彼らにより築造されたものと考えられる。
 そして高屋宮を、西都市都於郡内に存在する黒貫(くろぬき)寺という古寺の境内と、都於郡城(とのこおりじょう)址の二カ所が比定されているが、現在もこの一帯を高屋(たかや)と呼ぶことや、古代の児湯県(こゆのあがた)内であることから、都於郡城址に想定する考えが永く続いてきた。この他、高屋宮の比定地として、高屋神社(西都市大字岩爪)、高屋神社(宮崎県村角町)、高屋神社(鹿児島県肝属郡肝付町北方)等がある。

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       都於郡城跡           黒貫寺       子持家形埴輪

 ところで鹿児島県は、菱刈(ひしかり)鉱山の金を始めとした鉱物資源の宝庫である。そして遠征軍の物部氏は鉱山やそれに伴う金属精錬に長じた氏族でもあることから、景行大王一行が日向で過ごした六年間は、南九州の平定だけでなく鉱山開発に要した期日でもあった事が考えられる。それにしても、大王が遠征で留守の間、政(まつりごと)はどうなっていたのであろうか。
 所在地  宮崎県西都市大字三宅字西都原西5670    県立西都原考古博物館
 連絡先 宮崎県立西都原考古博物館
 TEL 0983(41)0041

 

 

 

       

                           第二十一話 熊襲国

 

 十二月(しはす)の癸巳(きし)の朔(つきたち)にして丁酉(ていゆう)に、熊襲(くまそ)を討(う)たむことを議(はかり)りたまふ。是(ここ)に天皇(すめらみこと)、群卿(へまつきみたち)に勅(みことのり)して曰(のたま)はく、「咲(わ)が聞(き)けらく、襲国(そのくに)に厚鹿文(あつかや)・乍鹿文(さかや)といふ者(もの)有(あ)り。是(こ)の両人(ふたり)は熊襲の渠師者(かみ)なり。衆類甚多(しゅうるいにへさ)にして、是(こ)を熊襲の八十梟師(やそたける)と謂(い)ふ。

 

 十二月の五日に、熊襲国を討伐することを協議された。この時、天皇は群卿に勅して、『聞くところによると、襲国に厚鹿文(あつかや)・乍鹿文(さかや)という者がいる。この二人は熊襲国の首領である。徒党がすこぶる多く、これを熊襲国の八十梟師(やそたける)といっている。

 

 

 古事記に九州は、筑紫国、豊国、肥国、熊曽国(くまそのくに)と記され熊曽国が、およそ南九州一帯であることが分かる。その範囲についても、人吉・球磨地域に存在する古社の配置を見ると、球磨川(熊本県)を挟んで南側が全て霧島系神社(熊襲国)である。
 それに対して、北側は全が阿蘇系神社(肥国)と、はっきり分かれ球磨川が両国の国境線であった。その範囲も概ね球磨川と一ツ瀬川(宮崎県)を結んだ線より、南が熊襲国で北が肥国であった。人吉市内についてみてみると、球磨川を挟んで北の青井阿蘇神社(国宝)に対し、対岸の老神神社(県指定文化財)が対峙する様に鎮座している。なお、霧島神宮は六世紀(欽明大王治世)に創建された古社で、 高千穂山頂に瓊瓊杵尊が突き刺した、天の逆鉾で知られる。  

             写真をクリックすると拡大

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   霧島神宮     青井阿蘇神社(阿蘇系)  老神神社(霧島系)   
 また熊襲が地名から来ていると考え、球磨(熊本県球磨地方)と囎唹(そお)(鹿児島県国分地方)の連合勢力と考える説が一時有力であった。しかし両地域は地理的にも離れているうえ、山並みがさえぎり二つの地域の往来や結びつきは考え難く、熊襲と呼ばれた部族自体、存在しなかったとも考えられている。
 ところで、南九州の人々が奉じる霧島神社は、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を主祭神とし、記紀に日向国に天下った事が記されているが、この瓊瓊杵尊とは一体何者であろうか。
 かつて、中国大陸南部の呉(ご)呉越(えつ)と呼ばれた揚子江下流域の民が、戦乱や漢民族の流入に伴い難民となって各地に逃れた。その一部は中国雲南やタイ奥地の少数民族となり、あるいは揚子江周辺から、ボートピープルとして東シナ海に面した各地に逃れた。その中に千島海流に載り、南九州の薩摩半島に漂着した一団があった。
 それが日本神話でいう所の瓊瓊杵尊と、その一統による九州への天孫降臨である。漂着地が南九州であったことから、降臨地も大和でなく南九州(日向国の高千穂峰)と記されたのである。
 その後、彼らは優れた航海技術により、海人(あま)族として海を介し列島各地に進出していった。瀬戸内海の大三島(愛媛県今治市)には、山祇(やまつみ)神社の総本社である大山祇神社(主祭神は瓊瓊杵尊の妃の父)が鎮座し、彼らが瀬戸内を頻繁に航行していた様子がうかがえる。また日本海に浮かぶ隠岐島にも、隼人神社が多数見られ、その足跡は列島各地に見ることができる。

 そう考えると神武東征も実は、瓊瓊杵尊の本貫の地である揚子江下流域の部族が、琉球列島の久米島(一行を道案内したという久米氏本貫の地)から奄美諸島沿いに南九州に上陸し、初代の瓊瓊杵尊から三代(日向神話)を経た神武と合流し大和に向かったのではなかろうか。

  所在地 鹿児島県霧島市霧島田口  霧島神宮
  連絡先 霧島神宮
 TEL 0995(57)0001

 

 

 

 

          

                          第二十二話 日向の駒

 

  其(そ)の鋒当(ほうあた)るべからずときく。少(すこ)しく師(いくさ)を興(おこ)さば、賊(あた)を滅(ほろぼ)すに堪(た)へじ。多(さは)に兵(いくさ)を動(うごか)さば、是百姓(これおほみたから)の害(そこなひ)なり。
 何(いか)でか鋒刃(つはもの)の威(いきほひ)を仮(か)らずして坐(い)ながらに其(その)の国を平(ことむ)けむ」とのたまふ。

 

 その武力に敵対できる者はいないと聞く。少々の軍勢を出したのでは、賊を討滅することはできないだろう。
 さりとて多くの兵士を動かせば、百姓を損なうことになる。なんとか兵戈の威力を借りずに、居ながらにしてその国を平定できないものか』と仰せられた。

 
   
 八十梟師(やそたける)について、『その武力に敵対できる者はいないと聞く』と記され、その強さの秘密は馬にあったとも考えられる。乗馬の風習は、馬具の出土例から五世紀には朝鮮半島から持ち込まれ普及していき、六世紀になると戦争や儀式用に馬の生産が盛んになった。

 推古天皇の詠んだ歌(612年)に、「馬なら日向の駒、太刀なら呉の真鋤(まさび)」と歌われている。呉の真鋤とは中国南部の呉で生産される太刀のことで、古くから名刀の産地として有名で、それと同じくらい日向で生産される馬は名馬して有名であった。 

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 平安時代初めの延喜式(えんぎしき)によると、馬牧は関東地方に多く、九州では日向が知られ、野波野(野尻)、都濃野(都農)、堤野(小林)の三ヶ所が記されている。当時、全国の馬牧が27ヶ所であることを考えると、いかに日向が名馬の供給地であったかが分かる。その馬を育て、牧を営んだのは主に渡来系集団だといわれ、宮崎県内における馬の殉葬と、地下式横穴墓の分布圏とが重なることから、地下式横穴墓を墓制とする人々が、朝鮮半島らの渡来系集団であった事を示す傍証となっている。

 大正五年に西都原古墳から山一つ越えた、百塚原古墳群から金銅製馬具類が(六世紀前半)が出土した。これとそっくりな鞍(くら)が応神天皇陵の陪塚から出土しており、この鞍にも勝るとも劣らない馬具類は、日向が当時の日本列島において重要な地であったことを物語っている。 
 この鞍は朝鮮半島で制作されたと見られ、その伝達経路として、かつて琉球列島から北部九州まで貝輪を運ぶ、『貝の道』と呼ばれる九州西岸の航路が存在した。しかし五世紀になると北部九州で貝輪の需要が減少し、それに代わって朝鮮半島の螺鈿(らでん)に使用されるようになると、『貝の道』も朝鮮半島まで繋がり、その結果、この航路を利用し朝鮮半島から多くの人馬が、直接南九州に流入するようになった。この時持ち込まれた馬が日向の駒のルーツであり、その遺種とされるのが、都井岬に放牧されている120頭余りの野生馬である。そのルーツは中国の蒙古馬とされサイズが小形の馬である。

 この古墳時代中期(五世紀)の馬の全身骨格が、有明海に面した上代町遺跡群(熊本市西区)で出土した。写真の様な体高125㎝、12歳前後の雄とみられ現在の乗馬用の馬と比べるとかなり小形である。この時代、列島内では準構造船(基本的に丸木舟)が使用され、馬を日本列島へ搬送するには、馬体の小さな子馬でないと不可能であった。そのため五世紀になるまで列島内への馬の移入が遅れ、その後も急速な需要から馬に対する去勢技術は根付かず、朝鮮半島や大陸とは異る飼育方法となった。
 住所   宮崎県串間市大字都井岬  岬馬
 連絡先 宮崎県串間市役所
 TEL 0987(72)1111

 

 

 

 

         

                                         第二十三話 隼人塚

 

 時に一臣有(ひとりのへまつきみあ)り、進(すす)みて曰(まを)さく、「熊襲梟師(くまそたける)、二女(ふたりのむすめ)有(あ)り。兄(え)を市乾鹿文(いちふかや)と曰(い)ひ、弟(おと)を市鹿文(いちかや)と曰ふ。容既(かたちすで)に端正(きらぎら)しく、心且雄武(こころまたをを)し。重幣(おもきまひ)を示(み)せて、麾下(きか)に撝納(めしい)れたまふべし。

 その時、一の臣がおり、進言して、「熊襲梟師(くまそたける)には二人の娘がおります。姉を市乾鹿文といい、妹を市鹿文といいます。容貌はまことに端麗で、しかも心は雄々しくございます。高価な贈物を見せて、御居所にお召し入れなさいませ。

 

 

 隼人(はやと)とは七世紀後半になり、大和王権から一方的に辺境に住む夷狄(いてき)とされ、隼人の卑称で呼ばれた部族である。そして主に薩摩・大隅方面に居住する人々の総称でもあった。その隼人の名が付いた、隼人塚と呼ばれる史跡が、隼人町JR隼人駅近くと、止上(とがみ)神社南西の水田の中の二カ所に存在する。
 隼人町の隼人塚は熊襲塚とも呼ばれ、小字名から正国寺という寺の跡ともいわれてきたが、近年の発掘調査の結果により、平安時代後期の寺院跡であることが判り、三基の五重石塔と四天王像四体が修復作業により創建当時に近い姿で見ることができる。
 次に霧島市重久の隼人塚については、地元で隼人の首塚と伝えられ720年2月に、大隅隼人を中心に最大かつ最後の反乱を起こした。反乱の原因は大和朝廷による日向国からの薩摩・大隅国の分割、それに伴う戸籍調査、中央からの国司の派遣のといった、隼人の地を直接支配しようとした事にあった。
 それに対し朝廷は、一万人以上の征討軍を動員し鎮圧するのに一年数ヶ月を要した。そして殺された隼人の霊を慰霊し、その祟りを恐れて隼人塚の近くに止神神社が創建された。続日本紀によると、この時の様子を、『斬首・捕虜合わせて千四百余人』と記され、重久の隼人塚は実際に隼人の首を切ってここに埋めたものでろう。重久の隼人塚に立つと、反乱時に立て籠もった姫城(ひめのじょう)を南西に見通す事ができ、処刑された人々の無念さが伝わってくる。           

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                 隼人塚(首塚)        隼人塚(寺院跡)    
 これまで、南九州の部族については、大和王権と対立する勢力として捉えられてきたが、その実態を知る手掛かりとして、宮崎県えびの市の島内遺跡において百年に一度ともいわれる、地下式横穴墓(島内139号)が発見された。五世紀末~六世紀初の築造で副葬品として、武器を中心に甲冑や装身具など四〇〇点もの副葬品を伴っており、この時期になると大和王権の中枢部で量産された鉄製の甲冑が、九州南部の地下式古墳から多く出土する様になる。
 島内遺跡は、豪華な副葬品が出土する事で知られていたが、今回は社会的地位の象徴である、朝鮮半島南部で制作された銀装円頭大刀(最古の鮫皮巻柄)や、大和からと思われる国内最長(150㎝)の大刀など、何れも地域内では入手不可能な品々であった。
 大和に出所し武人として軍事的な活躍が認められたか、あるいは朝鮮半島における対外政策を担う最前線要員として半島に渡り直接入手したとも考えられる。また、この時期に磐井戦争が勃発し、大和王権による懐柔策として与えられたのであろうか。

 これまで南九州について書紀に、近畿から遠く離れた山奥で中央政権に服従せず頑固なまでに対立した、熊襲や隼人と呼ばれる未開の民と記されている。これは書紀編纂時における南九州の状況を偏見を持って描かれたものであり、その実態は地下式横穴墓(島内139号)の副葬品が示すように、この時期大和王権とは友好関係以上に深い繋がりを持ち両者の関係は良好であった。 
  住所   鹿児島県霧島市重久  隼人塚
 連絡先  隼人塚史跡館
 TEL  0995(43)7110

 

 

 

          

                          第二十四話 熊襲の穴

 

 因(よ)りて其の消息(あるかたち)を伺(うかか)ひたまひて、不意(おもひのほか)の処(ところ)を犯(をか)さば、曾(かつ)て刃(やきは)を血(ちぬ)らずして、賊必(あたかなら)ず自(おの)づから敗(やぶ)れなむ」とまをす。
 天皇の詞(のたま)はく、「可(よ)し」とのたまふ。是(ここ)に、幣(まひ)を示(み)せ、 
其の二女(ふたりのをみな)を欺(あざむ)きて、幕下(ばくか)に納(めしい)れたまふ。


 そうして熊襲梟師の消息をおうかがいになって、不意を討てば、まったく刃(やいば)を血塗らずして、敵は必ず敗れるでしょう」と申しあげた。
 天皇は「可し」と仰せられた。そこで、贈物を見せて、その二人の女を欺いて、行宮に召し入れられた。

 

 

  中世以来の、武士道精神が染みついた我々にとって、女性を騙して父親を殺させるなど許し難く、さらに父親殺しを成功させると、今度は親不孝の名目で殺害してしまうという、なんとも虫の良い話である。しかし古代においては、戦わずして目的を達するのが最良の方法であり、そのための行動様式としては当然で、日本書紀の記述に迷いはない。
 ところで南九州は、遠征本来の目的である熊襲平定の地にも関わらず、これらに関する伝承などほとんど見られず、妙見温泉の『熊襲の穴』くらいである。そのため、元々その様な名称の部族などいなかったとも考えられる。
 妙見温泉にある熊襲の穴は、温泉の西側を200メートルほど登った山腹にあり、熊襲の首領である川上梟師(たける)が、女装した日本武(やまとたける)尊に謀殺された伝承の地である。入り口は狭いが中は広く、奥行き22m、幅10m、高さ6mで、内部は芸術家により壁一面に色鮮やかな、不思議なとも思えるモダンアートが描かれている。

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      熊襲の穴(入り口)       熊襲の穴(内部) 
 飛鳥時代(天武朝)の七世紀後半になると、『遠の朝廷』と呼ばれた太宰府政庁が設置され、ここを通じて九州内における詳しい情報がもたらされるようになった。その結果、歴史書に隼人の名称が初めて記されるのが、682年に大隈の隼人と阿多の隼人に相撲を取らせたという記録がのこされている。しかし、この時代になると南九州での地下式古墳の築造はすでに停止しており、そのため隼人の名称も地下式古墳の築造されていた時期には使用されていなかたのであろう。

 従って熊襲・隼人とは、国家整備を急ぐ大和王権により、辺境の部族が徳を慕い朝貢してくるという、中華思想のミニ版を演じるため、後に創りだされた名称と考えられる。大和から遠く離れた南九州の人々を、まつろわぬ民として熊襲を、その後帰順した人々を隼人として創作したものと考えられている。

 そして大和朝廷から一方的に見た、朝貢せず、まつろはぬ、叛く、と言ったイメージを決定付けたのが、720年に勃発した隼人の乱である。この出来事により以後の歴史書には、打たれるべき存在として登場することになる。しかし近年えびの市の島内遺跡で見つかった、地下式古墳(五世紀末)の甲冑や武器類を中心とした豪華な副葬品は、武人として中央政権との深い関係を示し、まつろわぬ民というイメージを塗り替え、もはやその認識は過去のものとなりつつある。そのため地元の鹿児島県でも、熊襲や隼人の名称を使用しない様にしているとの事であった。
    なお、江戸時代の国学者、本居宣長(もとおりのりなが)は古事記を研究し、その中で熊襲について、『熊襲の熊は熊鷲(くまわし)・熊鷹(くまたか)と同じく猛き意味であり、襲は恐ろしい(おぞましい)の意味か、あるいは勇男(いさお)(勇猛)の意味である。従って、熊襲の語義は勇猛なる人、と言うことである』と説明している。

  所在地 鹿児島県霧島市隼人町嘉例川  熊襲の穴
 連絡先 霧島市役所 歴史・文化財
 TEL 0995(45)5111

 

 

 

       

                       第二十五話 地下式古墳

 

 天皇、則(すなは)ち市乾鹿文(いちふかや)を通(め)して陽(いつは)り寵(めぐ)みたまふ。時に市乾鹿文、天皇に奏(まを)して曰(まを)さく、「熊襲の服(したが)はざることを、な愁(うれ)へたまひそ。妾(やっこ)に良(よ)き謀(はかりごと)有り。則(すまは)ち一二(ひとりふたり)の兵(いくさ)を己(おのれ)に従(したが)へしめたまふべし」とまをす。

 

 天皇は、そこで市乾鹿文の方を招き、偽って寵愛された。時に市乾鹿文は、天皇に奏上して、「熊襲国が服従しないことを心配なさいますな。私に良い策があ
ります。それで一人か二人の兵士を私に付けてください」と申しあげた。

  

  

 南九州の特徴を示す墓制として、地下に玄室(げんしつ)を設けた地下式古墳と呼ばれる独自の墓制を営んだ。
 地下式板石積石室墓は、弥生時代からの箱式石棺を変化させ、海岸部に早期のものが見られ、北薩や鹿児島県西側の川内川流域を中心に分布している。出現時期も四世紀と古く副葬品も質素で、鉄製の鏃(やじり)や鉄刀、鉄剣など武器類が中心である。この地下式板石積石室墓(直径2.1m(円形)、4世紀)が九州縦貫道建設に伴う発掘調査中に、えびの市灰塚台地で発見され、天井大石まで完全に残り希少価値が高いため、えびの市歴史民族資料館中庭に移転展示されている。

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                    地下式板石積石室墓                      地下式横穴墓(島内139号)
 これに対し、五世紀になると朝鮮半島の横穴式の影響を受けた地下式横穴墓が出現する。前方後円墳が見られる宮崎県南部から鹿児島県肝属平野の海岸部や、大淀川あるいは九州西側の川内川中流域にかけた内陸部に分布し、七世紀中頃まで造られた。
 これらの地下式横穴墓が五世紀に出現することから、朝鮮半島から馬と共に南九州へ渡来してきた人々が伝えたものと考えられる。この横穴方式は、追葬が容易である事から列島各地に伝播し、小規模な古墳が集中する群衆墓を生じさせた。
 地下式古墳の中には、生目(いきめ)古墳群内の生目七号墳(五世紀後半、全長四六㍍)の様に、外見は大和王権と同じ前方後円墳をとりながら、古墳の内部主体は伝統的な地下式横穴墓も存在する。

    これは、大和王権と南九州の勢力が友好的関係にあった事を示すもので、五世紀後半になると南九州の豪族も諸県君(もろかたのきみ)を通じて大和王権と結びつき、地下式横穴墓に短甲や大刀などを副葬する密度が高くなる。これらの鉄器は大和王権から連携の証として配布されたもので、この地域を重要視していた事がうかがえる。ところが出土した豪華な副葬品に比べ、地域内での横穴墓の大きさに大差はなく、このことから階層差の少ない社会であったと考えられる。
 この様な地下式横穴墓に対し、同じ地下式でも板石積石室墓を墓制とする勢力は、北部九州の筑紫勢力を後盾とし、これに対抗したと考えられ、『磐井戦争』(527年)後、地下式板石積石室墓は衰退していく。この様に同じ南九州に居住していても、大和王権に対する対応は一様ではなかった。
 今回、大量の副葬品を納めた地域首長墓の、島内139号墳が見つかった島内遺跡は、これまでにも、銀象嵌大刀や短甲、冑など貴重な副葬品が出土することで知られ、五世紀から六世紀にかけての地下式横穴墓が、小高い台地上の畑地(東西650m、南北350m)に分布している。

   所在地 えびの市大字島内字平松杉ノ原 地下式横穴墓(島内139号)
   連絡先 えびの市歴史民俗資料館  
  TEL 0984(35)3144

 

 

 

     

                       第二十六話 薩摩焼酎

 

 而(しか)して家(いへ)に帰(かへ)りて、多(さは)に醇酒(じゅんしゅ)を設(ま)けて、己(おの)が父(ちち)に飲(の)ましむ。乃(すなは)ち酔(え)ひて寐(い)ぬ。市乾鹿文(いちふかや)、密(ひそか)に父の弦(ゆづる)を断(た)つ。爰(ここ)に従(したが)へる兵一人(いくさひとり)、進みて熊襲梟師(くまそたける)を殺(ころ)す。

 

 かくして市乾鹿文は家に帰って、濃い酒をたくさん用意して、 自分の父に飲ませた。するとたちまち酔って寝てしまった。市乾鹿文は、ひそかに父の弓の弦を切っておいた。ここで、従兵の一人が突き進んで、熊襲梟師を殺した。

 


 熊襲国を服従させるのに武力ではなく、酒に酔わせ寝込みを襲うという戦法である。そのため、『濃い酒をたくさん用意して』、と記された濃い酒とは、熊襲国の首領を酔い倒すほどの酒であるから強烈さも半端ではなかろう。
 かつての熊襲国であった鹿児島県は、芋焼酎の本場である。そのため、酒に油断した熊襲梟師の記事とが、妙にオーバーラップし、焼酎のような強い酒が当時も存在したと思えてしまう。
 この薩摩焼酎、日本酒と異なり原料である甘藷(薩摩芋)を発酵させ、できた醸造酒をさらに蒸留して得られた蒸留酒であり、アルコール度数が高く、なかには『鬼倒し』と呼ばれる銘柄も存在する。なお日本酒を蒸留したが米焼酎である。焼酎の名称も、中国古典の強い酒を意味する『酎(ちゆう)』の文字と、酒を蒸留する際の火から『焼』をあて焼酎となった。
 高濃度アルコール酒の製造に欠かせない蒸留技法は、イスラム文化圏で開発され十六世紀以降、南方諸国より伝来した。その後、十八世紀に入ると甘藷が焼酎の原料として用いられる様になり、年代的に薩摩焼酎が熊襲梟師を倒した酒のルーツとは考えつらい。なお、田苑酒造資料館に展示されている、チンタラと呼ばれる明治時代の蒸留装置は、竹筒を通じて蒸留酒が瓶に貯まる仕掛けになっている。

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     チンタラ(蒸留装置)                     可愛山稜
 ところで、この様な酒攻め作戦は他にも、出雲神話に登場する八岐大蛇(やまたのおろち)退治がある。この時に用いた酒も『八塩折(やしおおり)の酒』と呼ばれ、大蛇を倒すほどの強力な酒が用いられた。
 本居宣長はこの酒について、醸造した酒の汁をしぼり粕を捨て残った汁でまた醸し、これを繰り返すこと八回にして、八塩折の酒を得ることができると古事記伝の中で記している。しかし、その製法について詳しいことは分かっていない。
 古代の酒の製法について大隅国風土記に、『酒を造ることを「かむ」と言う。水と米をある家に用意し、男女が集まって米を噛んで酒船(酒専用の容器)に吐き入れた。その後、酒の香がしてきたころにまた集まって、噛んで吐き入れた者たちが飲む、これを口噛(くちかみ)の酒と呼ぶと』記されている。

 話は変わるが、薩摩川内には薩摩国一宮である新田神社が鎮座し、その奥に瓊瓊杵尊の陵墓である可愛山陵(えのみささぎ)が控える。瓊瓊杵尊一行は南さつま市の笠沙で木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と出会い三人の王子を育て、その後、東シナ海沿いに薩摩川内に移動しこの地に神殿を築き、地域を開拓統治したと言われている。

 可愛山陵は、同じ鹿児島県内の高屋山上陵(たかやのやま)(霧島市)、吾平山上陵(あひらのやま)(鹿屋市)とともに神代三山陵とされる。

    所在地 鹿児島県川内市樋脇町塔之原11356の1 チンタラ(蒸留装置)
   連絡先 田苑酒造資料館  
  TEL 0996(38)0345

 

  

 

                                             

                              二十七話 火国造

 

 天皇(すめらみこと)、則(すなは)ち其(そ)の不孝(ふかう)の甚(はなはだ)しきを憎(にく)みたまひて、市乾鹿文を誅(ころ)したまひ、仍(よ)りて弟市鹿文(おといちかや)を以(も)ちて火(ひの)国造(くにのみやつこ)に賜(たま)ふ。


 天皇は、そこで、その不孝の甚だしいことを憎んで、市乾鹿文を誅殺し、そうして妹の市鹿文を火国造にされた。

 

 

 書紀の、『妹の市鹿文(いちかや)をを火国造(ひのくにのみやつこ)にされた』との記事は、一方で火国造が熊襲国出身の女性であった事を伝えており、火の国成立を考える上で興味深い一文である。
 実際に宇土半島基部の向野田(むこうのだ)古墳からは、保存の良い三十代後半の女性が舟形石棺に納められ、発見当時は多くの副葬品を伴っていたことから、卑弥呼の墓ではないかと騒がれた。この時代に当時貴重であった貝輪を多数副葬し、南九州の海人族をルーツとする女性首長であった。

 火国発祥の地の一つとされる宇土半島基部は、弥生時代に中国南部の呉から渡来した海人の安曇(あずみ)族により、『貝の道』と呼ばれる本拠地の福岡市東区と、故地である江南地方とを結ぶ中継地として発達した地域である。彼らは、その間に大型貝が生息する琉球諸島で入手したイモガイやゴホウラ貝を、貝の道を利用し消費地の北部九州まで運ぶ交易に携わっていた。

 この航路は弥生から古墳時代と900年間に渡り存続し、後の遣唐使の南島路コースに引き継がれることになる。 向野田古墳は採土工事中に偶然発見され、出土遺物は国の重要文化財に指定され宇土市立図書館一階に展示されている。なお女王の遺骸の写真は、これらの展示品と一緒に、発見時の写真が大きなパネルになっており、それを撮ったものである。

        図をクリックすると拡大

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              貝の道 (図説熊本県の歴史より)         女王遺骸(向野田古墳)                 また熊本市最古の健軍神社の祭神は、火国造の祖である健緒組(たけおぐみ)ともいわれ、健を熊襲国に、緒組を大王(おおきみ)とすると健緒組は熊襲国の大王となる。また古事記に、火国の国名が『建日向日豊久土比泥別(たけひむかひとよくじひぬわけ)』と記され、日向の文字を含んでいるなど、いずれも九州南部地域と火国との関係を強く示唆している。
 これらの事から五世紀代の一時期、熊本県南部を含む南九州が、日向の勢力範囲に含まれていた事が考えられる。それまで熊襲国であった西都原に新たに日向国が成立し、巨大古墳の男狭穂塚、女狭穂塚が出現する。巨大古墳の出現は、日向国が熊本県南部を含む広大な地域へと、拡大したことを示しているとも解釈できる。
 また熊本県南部には、豊国別王の豊の付く地名が多く見受けられ、球磨川が八代平野に出たところが豊原(ぶいわら)、宇城市松橋町の豊福(とよふく)、豊川(とよかわ)、そして豊野町(とよのまち)などである。これらの地域では南九州と畿内だけに見出される特異な形をした鉄鏃(やじり)が出土し、大和との繋がりをうかがわせる。この時期、宇土半島基部で継続的に築造されていた前方後円墳が停止し、変わって菊池川流域での築造が盛んになる。 

  所在地 熊本県宇土市松山町  向野田古墳
  連絡先   宇土市役所教育委員文化課
  TEL 0964(23)0156

 

 

 

         

                        第二十八話 国別豊王

 

 十三年夏五月に、悉(ことごとく)に襲国(そのくに)を平(ことむ)けたまふ。因(よ)りて
高屋宮(たかやのみや)に居(ま)しますこと己(すで)に六年(むとせ)なり。
 是(ここ)に、其の国に佳人有(かほりよきをみなあ)り。御刀媛(みはかしひめ)と曰(い)ふ。則ち召(め)して妃(みめ)としたまふ。豊国別皇子(とよくにわけのみこ)を生(う)めり。
 是(これ)、日向国造(ひむかのくにのみやつこ)が始祖(はじめのおや)なり。

 

 十三年夏五月に、ことごとく襲国を征服された。そうして天皇は高屋宮に居住されること六年に及んだ。
 ところで、その国に御刀媛(みはかしひめ) という美人がいた。そこでこれを召して妃とされた。豊国別皇子を生んだ。  
 これが日向国造の始祖である。

 

  

 日向国の始祖とされる豊国別王とは、いつ頃の人物であろうか。日本書紀に記された歴代の大王名を見ると、応神大王から始まる五世紀代の大王(天皇)名には、名前の最後に「別(わけ)」の称号がついている。誉田(ほむだ)別(応神)や去来穂別(いざほわけ)(履中)、あるいは瑞歯別(みつはわけ)(反正)などで、豊国別王の名前にも「別」の称号が記されているところから、五世紀代の人物と考えられる。

 しかし書記の記述では景行大王の皇子が豊国別王となっており、四世紀前半の景行の皇子が五世紀代の人物というのは考え難い。景行大王の時代、日向で有力であったのは、宮崎市跡江地区の生目(いきめ)古墳群(三世紀末~四世紀代、前方後円墳七基)を造営した勢力で、中でも三号墳は全長143mと前期古墳では最大級である。
 それが五世紀始になると、宮崎平野各地における首長墓の築造が停止し、替わりに西都原の台地上に、巨大古墳の男狭穂塚(おさほづか)(帆立貝式古墳154m、女狭穂塚(めさほづか)(畿内型前方後円墳・176m)が出現する。これは宮崎平野が一国に統合され、初代国造に豊国別王が就いたことを示し二基の巨大古墳は、その系譜が二代続いたことを示しているとも解釈できる。        

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                              男狭穂塚                                            女狭穂塚
 最近の研究で、女狭穂塚は大阪府藤井寺市の中津山古墳(全長286m)の5分の3の相似形(同じ形)であることが分かった。中津山古墳が存在する古市古墳群は、応神、仁徳朝の古墳群と考えられており、女狭穂塚の被葬者を仁徳大王妃の髪長媛とすと、時代も同時期である。また仁徳大王の妃に相応しい古墳の形や大きさであることから、女狭穂塚は髪長媛の陵墓であると考えられる。

 また男狭穂塚の帆立貝式古墳についても、この形式の古墳は奈良県大和盆地西部ある馬見(まみ)古墳群の乙女山古墳(全長約130m・5世紀前半)を始めとして、この地域に多く見られる古墳形式である。この地は葛城氏の本拠地とされ、仁徳大王の皇后であった磐之媛(いわのひめ)の出自である。そして諸方君牛が仁徳大王に髪長姫を献上した記事から、男狭穂塚の被葬者は諸方君牛と考えられる。

 なお帆立貝式古墳は、 前方後円墳の前方部を短くしたもので、 前方部を極端に短くして、 前方後円墳の被葬者より階層的に下位にある事をその墳形から明示したものと考えられる。いずれにせよ、二基の古墳が同時期に重なるように接近して築かれている事から、両者は近しい関係であったことに間違く、二基の巨大古墳は入内した髪長媛と、その父で外戚としての諸方君牛のものであろう。

 その後、西都原台地上では六世紀後半まで前方後円墳が造られず、それに替わって新田原古墳群に大型の前方後円墳が築かれるようになり、再び宮崎平野での盟主が移動したことを示している。宮内庁により男狭穂塚、女狭穂塚、共に陵墓参考地に指定され、せっかく訪れたのに多数の木々が巨大古墳を覆い、墳丘の形さえ窺い知る事しかできない現状を、何とかして欲しいと切に希望する次第である。 

          男狭穂塚、女狭穂塚の被葬者比定
       日本書紀  地元伝承    有識者   築造時期 

 男狭穂塚   瓊瓊杵尊   豊国別王    諸県君    五世紀初頭

 女狭穂塚   木花開耶媛  御刀媛     髪長姫    五世紀前半

 両者の関係    尊と妃    息子と母     父と娘

 所在地  宮崎県西都市大字三宅    男狭穂・女狭穂塚
 連絡先 県立西都原考古博物館
 TEL 0983(41)0041

 

   

 

        

                           第二十九話 日向国

 

  十七年の春三月(はるやよひ)の戊戌(ぼしゅつ)の朔(つきたち)にして己酉(きいう)に、児湯県(こゆのあがた)に幸(いでま)し、丹裳小野(にもののおの)に遊(あそ)びたまふ。時に東(ひむがしのかた)を望(みそこなは)して、左右(さいう)に謂(かた)りて曰(のたま)はく、『是(こ)の国は、直(ただ)に日出(ひい)づる方(かた)に向(む)けり』とのたまふ。故(かれ)、其の国を号(なづ)けて日向(ひむか)と曰(い)ふ。

 
 十七年春三月の十二日に、児湯県に行幸して、丹裳小野に遊ばれた。その時に、東方を望まれて、側近の者に語って、『この国は、日の出る方に直面している』と仰せられた。それゆえ、その国を名付けて日向と曰う。

 

 

 古代日本の最高神は天照大神とされ、宗教的には太陽(日神)信仰であった。このことは、日本各地に、『日向』の文字を当てた地名が五四ヶ所もあることでも窺い知る事ができる。その中でも宮崎県は、長い海岸線が東に面し全国的にも日照時間が長く、まさに日向国の名に相応しい地域である。
 日向(ひゆうが)の呼び名も、古くは「ヒムカ」と呼ばれ、その位置も現在の日向市と異なり西都原市辺りで、範囲も児湯県(こゆのあがた)程度の狭い地域の名称であった。また中心地も西都原一帯であったと考えられ、後に国府が置かれる三宅(みやけ)、妻(つま)といった地域が行政、文化の中心地であった。
 その後、日向は宮崎平野から大隅、薩摩地方を含む広大な地域の呼び名となったが、そこは、かつて熊襲国と呼ばれた地域でもあった。そして、日向国が現在と同じ領域となるのは、律令時代に入った八世紀初めに薩摩国と大隅国の二国が設置されてからで、西都市妻北地区に日向国府が置かれた。
 古事記に、『筑紫島(九州)も身体が一つに顔が四つあり、顔ごとに名がある。筑紫国は白日別(しらひわけ)、豊国は豊日別(とよひわけ)、肥国は建日向日豊久(たけひむかひとよく)土比泥別(じひぬわけ)、熊襲国は建日別(たけひわけ)という。』
 この記事に日向国は見当たらず、この時期、日向地域は熊襲国に含まれ、日向の名称は存在していなかった。その熊襲国の地に、新たに豊国別王が始祖として日向国造となった時期、日向国も成立したと考えられる。

 伝承によると、日向国造は豊国別王の後、その子の老男(おいお)と続き、老男の子が諸県牛君と伝わりる。そして老男が西都原の三宅に住んでいたとされる事から、豊国別王もここに住んでいたと考えられる。なお国造本紀では応神大王の時代、豊国別王の孫である老男が日向国造の始祖となっている。

 この時期に使用された準構造線の埴輪が西都原古墳群から出土し、復元すると船べりに12個(12人乗り)のオールの支点が設置された航海用の船であった。宇土市の方では、この埴輪をモデルに古代船『海王』(第二話 周防灘の写真)を復元し、宇土~大阪間約1000㎞を航海する「大王のひつぎ実験航海」に使用された。

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             日向灘        大型古代船の埴輪     御船塚 

 記紀によると初代神武大王は、ここ日向(日向市耳川河口港)を船出し、日向灘を北上しながら大和に向かったという。しかし古代においては西都原一帯が日向であり、後に国府が置かれるなど日向地方における中心地であった。従って神武大王の船出も耳川河口(美々津)ではなく、西都原台地の麓に位置し、当時深い入り江で瓊瓊杵尊一行が着船したとの伝説が遺る『御船塚(みふねづか)』からの船出の方が相応しい。

 なお現在では海岸線から御船塚まで直線距離で11.5㎞余りに及び、かつて海と繋がっていた事を想像するのは難しい。しかし、口絵の『古墳時代の九州地図』を見ると、日向灘から御船塚まで船の出入りが可能な奥深い入り江となっており、口絵の古代の海岸線から確認することができる。  

  所在地  宮崎県日南市日南海岸  日向灘
  連絡先 宮崎県宮崎市観光課
  TEL 0985(21)1791

 

 

 

        

                          第三十話 丹裳小野

 

 是(こ)の日に、野中の大石(のなかのおおいし)に陟(のぼ)りまして、京都(みやこ)を憶(しの)ひたまひて、歌(みうたよみ)して曰(のたま)はく、

 愛(は)しきよし 我家(わぎへ)の方(かた)ゆ 雲居立(くもいた)ち来(く)も。

 倭(やまと)は 国(くに)のまほらま 畳(たたな)づく 青垣(あをかき) 山籠(やまこも)れる 倭(やまと)し麗(うるは)し。

 命(いのち)の全(まそ)けむ人(ひと)は 畳薦(たたみこも) 平群(へぐり)の山(やま)の 白橿(しらかし)が枝(え)を髻華(うず)に挿(さ) せ此(こ)の子(こ)。

とのたまふ。是(こ)を思邦歌(くにしのひうた)と謂(い)ふ。


この日に、野中の大石に登って、都をお偲(しの)びになり、歌を詠(よ)まれて、
 懐かしい我が家の方から、雲が立ち上ってこちらに来るよ。
 大和は国の中で最も秀でた国、重なり合って青垣をめぐらしたような山々の中に籠(こも)っている、大和はほんとに美しい。
 生命力の十全な若者は、平群の山の白橿の小枝を、 挿頭(かざし)にして遊べ。若者たちよ。

 と仰せられた。これを思邦歌という。

 

 

 景行大王が京(みやこ)を偲(しの)んで歌を詠んだ、『丹裳小野(にもののおの)』の伝承の地が西都原台地上の三宅神社の近くに現存し、野中の大石も畑の片隅に存在している。石の大きさは1.5mくらいである。野中の大石を見つけるのは困難であるが、近くに児湯地方の総社であった三宅神社があり、それを目印に探せばよい。 

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             野中の大石                 鬼の窟古墳
 ここ日向は、初代神武大王生誕の地で、大王家にとって聖地ともいえる場所である。そのため丹裳小野で詠まれた『国偲歌(くにしのびうた)』は、大和の素晴らしさを先祖神に報告したものであろう。時代は下るが、歌の中に大和と平群の地名が詠み込まれているのは、大和が雄略大王の時代の中枢部であったのに対し、平群はそれまでの葛城に替わり新たに外親としての地位を獲得し、勢力を拡大させた時期に詠まれたためであろう。

 この国偲歌と同じ歌が、古事記では日本武尊により伊勢国鈴鹿郡能褒野(のぼの)の地において詠まれていることから、これらの歌は何も特別な歌ではなく、旅に出ると一般的に歌われていたとも考えられている。
 西都原台地は、周囲が谷や崖に囲まれた標高60mの要害の地に、崖に沿って四世紀から七世紀にかけての古墳が311基確認されている。台地は地形上、古墳の存在する墓域の他に、後に隼人と呼ばれた人々に対する抑えとしての山城の役目を持っていた。
 有事の際には、要害の地である西都原台地に逃げ込み、守りを固め、或いは出撃して行くという性質のもので、台地南端の伝承の地、『野中の大石』一帯は、その展望の良さから見張り台と思われる。その後、隼人は南九州各地で蜂起するが、その鎮圧にはこのような山城が必要であり有効に機能したであろう。
 西都原台地上に最後に築かれた首長墓が『鬼の窟古墳』(七世紀初、全長50m)である。古墳群中唯一、横穴式石室を有し周囲に円形の土塁をめぐらせた珍しい形式の古墳で、飛鳥の石舞台古墳との類似性が指摘される。土塁の存在や宮崎県内に平群(へぐり)の地名が遺されていることから、被葬者は中央豪族の平群氏と考えられる。

 木花開邪(このはなさくや)姫に恋した鬼が結婚を望んだが、父である大山天祇(おおやまつみ)神から一晩で岩屋を造る様にいわれ、大山天祇神は完成させないように石を一枚抜きとった、との伝説に由来する。古墳内に入ってすぐ天井にある空洞は、結婚を望まない大山天祇神が、石室の岩を一枚抜き取った(盗掘口)ために生じたもので、求婚を断ることができた。なお西都市では、日向神話に関する神社や古墳、伝承の地を繋いだ、4㎞程度の『記紀の道』が設置されている。 

 所在地  宮崎県西都市大字三宅  野中の大石
 連絡先 県立西都原考古博物館
 TEL 0983(41)0041 

  

 

 

            

                            第三十一話 夷守

 

 十八年の春三月(はるやよひ)に、天皇(すめらみこと)、京(みやこ)に向(むか)はむとして、筑(ちく)紫(しの)国(くに)を巡(めぐり)狩(みそこなは)し、始(はじ)めて夷守(ひなもり)に到(いた)ります。
  是(こ)の時に、岩瀬河(いはせのかは)の辺(へ)に人衆聚集(ひとどもつど)へり。是(ここ)に天皇、遙(はるか)に望(みそこなは)して、左右(さいう)に勅(みことのり)して曰(のたま)はく、『其(そ)の集(つど)へるは何人(なにびと)ぞ。若(けだ)し賊(あた)か』とのたまふ。

 

 十八年の春三月に、天皇は、京に向おうとして、筑紫国を巡幸し、初めに夷守(ひなもり)においでになった。
 この時に、岩瀬河のほとりに人々が集合していた。そこで、天皇は遠くからそれを望まれて、側近の者に詔して、『あのように集まっているのは何者か。もしかすると賊か』と仰せられた。

 

 

  夷守(ひなもり)は、現在小林市細野の一区になっているが、かつては小林一帯の呼称で、後に熊襲と呼ばれた人々の地域内に含まれていた。そして、夷守が海岸部から離れた南九州中央部に位置することから、前方後円墳は全く見られず、代わりに南九州特有の地下式古墳が多数存在し、大和王権の力がこの地域に直接及ぶことはなかった。
 それでも律令時代になると、有事の際には最前線基地として、軍事拠点となる衛府(えふ)(役所)が置かれ平時は市が開かれるなど、地域の中心的機能を果たしていた。

 その後、夷守は景行天皇の伝承と共に栄えてきたが、明治以後は荒廃にまかせる時期もあり、景行大王の仮の宮が細野の専寿寺周辺とされることから、明治三十二年に時の郡長、多田信が『景行天皇御腰掛石』の石碑を建てた。また小林市出の山公園には水神が祀られており、その祠のそばに泉媛の墓がひっそりと佇んでいる。

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      景行天皇御腰掛石         泉媛の墓
 ところで、記紀に多くの襲国の女性が入内した事が記されているが、これらの入内には応神や仁徳といった五世紀代の大王(倭の五王)による中国南朝(江南地方)への朝貢と深く関係していた。
 朝貢の際の渡海コースとして、神武東征とは逆に近畿を出発した後、瀬戸内海から豊後水道を南下し日向の地に到っていた。その後、南九州から薩南諸島を島伝いに南下し最後の寄港地である奄美大島から東シナ海を横断する南回り航路をとっていた。中国大陸に着船すると、そこから陸伝いに目的地を目指した。この大陸を目指す南回り航路は、その後の遣唐使の南島路へと踏襲されていく事になる。
 この航路の利用には、航海技術に長けた海人族を有する、日向勢力との政治的関係強化が必要であり、そのため多くの襲国の女性が大王の妃となったのである。仁徳大王の妃として泉長媛、仁徳大王妃の髪長媛、他に景行大王妃が二名の計四人が入内したことになっている。

    他に四人の妃を排出した例は、吉備とと尾張があるだけで、大和王権と日向の間に政治的パートナーとしての繋りが強かったことを示しており、これら大王家との血の繋がりの濃さが、日向の地を大王家発祥の聖地としたと思われる。しかし日向から多くの妃を排出しながら、日向の女性を母とする王子で大王の地位に就いたものは一人もない。

 また襲国の女性の入内には、日向と政治的な繋がりの他に別の意味があった。伝仁徳陵の巨大古墳が視覚的に他を圧倒し、彼らの力をあます事なく誇示できたように、大和から遠く離れ、どこか異国情緒を漂わせる襲国の女性の存在は、心理的に王権による支配地域の広大さや、その威光を示す事ができた。
 まだ文字が使用されなかった時代、日向出身の妃には政治的関係の他に、心理的な演出といった役割も与えられていたのである。  
  所在地  宮崎県小林市細野専寿寺の境内 天皇腰掛石
  連絡先 宮崎県小林市役所
  TEL 0984(23)1111

  

 

 

          

                         第三十二話 諸県君牛

 

  乃(すなは)ち兄夷守(えひなもり)・弟夷守(おとひなもり)二人を遣(つかは)して覩(み)しめたまふ。乃(すなは)ち弟夷守、還(かえ)り来(まいき)て諮(まを)して曰(まを)さく、『諸県君泉媛(もろかたのきみいづみひめ)、大御食(おほみあへ)を献(たてまつ)らむとするに依(よ)りて、其の族会(やからつど)へり』とまをす。

 

 そうして、兄夷守・弟夷守の二人を派遣して視察させられた。ただちに弟夷守が帰って来て言上して、『諸県君泉媛が、天皇に召し上がり物を奉ろうとすることで、その一族が集まっております』と申しあげた。

 

  古代の食物神は女神として表現され、出産能力や女性の食膳調達能力を認識されていたため、服属儀礼である諸県君泉媛による大王への大御食(おほみけ)も、大王に召し上がり物を奉るのは女性の諸県君泉媛でなければならなかった。

 そして南九州の豪族には、記紀に諸県の一族である泉媛をはじめとした諸県しか見えず、南九州の広範囲を版図とする大豪族であったか、あるいはこの時期、南九州の豪族は諸県を通じて大和王権と繋がっていたとも考えられる。

 その諸県君に関する記事が、淡路国風土記に載せられている。『応神大王が、淡路島に狩りに出かけられた時、日向国の諸県君牛が角付きの鹿の革衣を着て海上に現れ、自分の娘である髪長媛(かみながひめ)の献上を申し出た。そのため、この港を鹿子(かこ)の港と呼ぶ』との地名説話が記されている。

 この記事は、諸県君牛による大王に対する服属儀礼をいっているのであるが、鹿子へはもちろん船で来たのであり鹿は古来より神聖視され、角付きの鹿の革衣を着ているのは正装しているからである。そして髪長媛の献上には諸県君牛によるある目的があった。
 この記事は淡路国風土記に載せられているものの、一般的に鹿子といえば兵庫県加古川市・高砂市一帯を指し、日向から遥々とこの地を訪れたのは、この地域から産出する石材の竜山石に理由があった。大王家の古墳(陵)に納められる石棺には、時代により使用される石材に決まりがあり、加古川市竜山から産出する竜山石、奈良県と大阪府の境にある二上山の二上山白石、それに熊本県宇土市馬門(まかど)地区で産出する阿蘇凝灰岩(阿蘇ピンク石)の三種類に限られ、その使用も大王家やその近親者にしか許されなかった。   

 f:id:yakatohiko:20191119134259j:plain f:id:yakatohiko:20191119132835j:plain    f:id:yakatohiko:20191125222240j:plain       長持形石棺(阿蘇凝灰岩)    岩瀬川     甲冑(島内遺跡出土)

    そのため五世紀代の、倭の五王と呼ばれる時代の有力古墳には、竜山石を使った長持形石棺が使われており、応神、仁徳と続く歴代の大王陵にも、これらと同様な石棺の使用が確実視されている。
 そこで、諸県君牛も自らの棺に大王家と同じ石棺の使用を望み、遙々と日向から加古川まで竜山石を受け取りに来たのである。まず髪長媛を仁徳大王の妃として入内させることにより、大王家の外戚としての地位を獲得し、前方後円墳の築造と竜山石による石棺の使用を求めたのであろう。その結果、前方後円墳は許されず帆立貝式古墳となったものの、竜山石の石棺については認められたのであろう。
 そう考えると諸県君牛の墳墓も、近畿王権の外戚に相応しい大古墳が想定され、日向地域にこれに該当する古墳としては、男狭穂塚と女狭穂塚を除いて見当たらない。従って、この二基の巨大古墳を諸県君牛と髪長媛のものとすると、両古墳には大王家と同じ竜山石による長持形石棺が納められているであろう。この時期、記紀の伝承によると、古代大和王権の大王とその妃は別々に葬られ、妃は出生地において古墳を造ることが一般的であった。                    

  所在地    宮崎県小林市野尻町  岩瀬川
  連絡先 宮崎県小林市役所
  TEL 0984(23)1111

  

 

 

       

                            第三十三話 熊県

 

  夏四月(なつうづき)の壬戌(じんしゅつ)の朔(つきたち)にして甲子(かふし)に、熊県(くまのあがた)に到(いた)りたまふ。其の処(ところ)に、熊津彦(くまつひこ)といふ者(もの)、兄弟(えおと)二人有(あ)り。


  夏四月の三日に熊県に到着された。そこに熊津彦という兄弟二人がいた。

 

  熊県と呼ばれた人吉・球磨地域でも、地下式板石積石室墓(荒毛遺跡)や地下式横穴墓(天道ヶ尾遺跡)が見つかっており、南九州と同じ墓制を持つ人々(熊襲・隼人)が住んでいた。その熊県にも、五世紀中頃になると錦町に前方後円墳の亀塚が築かれ、球磨盆地に大和王権が入ってきた。古墳の被葬者は、久米(くめ)の地名(多良木町久米)や、「クメ」から「クマ」への音変化などから久米氏と考えられ、その前方後円墳も三基で停止(六世紀初)し、それと期を同じくして大和の久米氏も突然歴史上から姿を消してしまう。
 その後、久米氏は、あさぎり町免田地区に才園(さいぞの)古墳群(円墳四基・六世紀)を遺すなど、球磨盆地を東に移動しながら土着の豪族として、鎌倉時代初めまでその勢力を保持してきた。球磨盆地最東端の湯前町に現存する城泉寺は、鎌倉時代の初め久米氏により建立された菩提寺とされる。また宮崎県と接し球磨盆地の最深部に位置する市房(いちふさ)山の名は、この山が久米市房の狩り場であったことに由来する。

 市房山麓には、直径5~6mの小円墳からなる千人塚古墳群(6世紀~7世紀)が存在する。この古墳については不明なことが多く、地理的に近い日向の西都原との関係が指摘されているが、球磨盆地の最東端に行き着いた久米氏に関するものであろう。

  話は変わるが、先日『マッチョな弥生人』という番組を見て気付いたのであるが、湯前町の知人の中に、下半身に比べ立派な上半身をしている方が複数おり、 彼らのルーツを久米氏に求めるなら、沖縄諸島の久米島を本貫の地とする久米氏にとって、大海原の移動は彼らをマッチョにし、そのDNAが現在の湯前の人々に生き継いでいるのではなかろうか。

 この球磨盆地で不思議なのは、才園二号墳(六世紀初・円墳)から、三世紀に中国江南地方で製作された、鍍金(金メッキ)神獣鏡が出土したことである。鍍金された鏡は全国でも出土例が三例しかなく非常に貴重なもので、この様な鏡が、なぜ球磨盆地といった山間部で見つかったのか不思議に思える。しかし久米氏が所持していた、伝世鏡を球磨に持ち込んだと考えると説明がつく。久米氏は神武東征時に皇軍として活躍し、初期大和政権の成立に貢献した軍事氏族で後に大伴氏の配下となる。
 ところで人吉駅裏の崖には、二六基の横穴墓からなる大村横穴墓群(六世紀代全般)が掘られ、同じ崖面に三角形や円文あるいは武具など、多く浮き彫りの絵が彫られている。被葬者は大村(多氏の村)から多氏一族のものと考えられる。

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     大村横穴墓群(11号)           才園二号墳               城泉寺(久米氏菩提寺)

 当時は、横穴墓群の真下を球磨川が流れ、川を隔てた対岸に横穴墓の墓守が住んでいた。そこには何らかの宗教施設が存在し、それが現在の国宝青井阿蘇神社であり、神社の起源は古墳にあった。11号横穴の壁面には当時の重要であった、矢と矢を入れるための 靫(ゆき)、刀子、円文といったモチーフが彫り込まれ、盗掘を防ぐため高い位置に横穴が設けられ、横穴を塞ぐための石蓋がのこされたものもある。

 青井阿蘇神社は平安時代(806年)に創建され、祭神として阿蘇三社を祀り鎌倉時代から約700年に渡って、この地を治めた相良氏により改修が繰り返された。平成20年6月9日に国宝に指定された。
  所在地    人吉市城本町JR人吉駅北  十一号横穴
  連絡先 熊本県人吉市役所
  TEL 0966(22)2111

 

 

  

       

                          第三十四話 天子神社

 

  天皇、先(ま)づ兄熊(えくま)を徴(め)さしめたまふ。則(すなは)ち使(つかひ)に従(したが)ひて詣(まい)る。因(よ)りて弟熊(おとくま)を徴(め)す。而(しか)るに来(まいこ)ず。故(かれ)、兵(いくさ)を遣(つかは)して誅(ころ)さしめたまふ。

 

 天皇は、まず兄熊を召し出された。すぐに使者に従って参上した。それで次に弟熊(おとくま)を召し出された。しかし、こちらは参上しなかった。そこで、兵を遣わして誅伐させられた。

 

 

 大王一行による夷守から熊県(くまのあがた)への移動は、小林市を流れ野尻湖に注ぐ岩瀬川を遡り、白髪岳(球磨郡あさぎり町)の麓を通過し球磨盆地に入ったと考えられる。球磨盆地は盆地という一見、閉鎖された社会のように思われるが、かつて球磨川により北の火国と南の熊襲国に分けられ、そのため文化的に両者が混在し他地域の文化を受け入れる柔軟性を持った地域であった。
 そのため球磨盆地では色々な墓制が見られ、南九州特有の地下式古墳や大和王権が拘った前方後円墳、あるいは装飾模様の施された横穴墓や円墳など、まるで古墳の品評会の様である。
 球磨郡内には景行大王遠征の折り、興(こし)を止められた所といわれる天子(てんし)や天丁(あもい)という地名が存在し、そこには天子神社と呼ばれる祠や神社が遺されている。その数は人吉・上球磨地区で十五ケ所(球磨郡誌)と、あまりに多く雷神や風神あるいは田の神様など諸説あるが詳しい事は不明である。なお山江の城内天子は、近くの山中より移築した小さな石祠で、その石灯籠には明和四年(1767年)の元号が刻まれていた。   

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       天子神社                                    野坂の浦
 ところで、相良(さがら)藩では江戸時代を通じ、一度もキリシタン発見のための踏み絵が実施されず、藩主や僧侶までもがキリシタンであった。そして天子の名称や近年人吉城で発掘された地下遺構等から、天子神社の正体は、景行大王巡幸の古事に倣った、隠れキリシタンに関する遺構と考えられる。
 その後、景行大王一行は球磨盆地から水島に移動するが、その際の経路として球磨から八代に出ると水島を通り越てしまう事になり、移動中に立ち寄ったとするなら日奈久(八代市日奈久町)からの船出となろう。肥前国風土記に、『球磨曾於(くまそ)を誅(つみな)ひて、筑紫の国を巡狩しし時、葦北の火流の浦(日奈久町)より発船して、火の国に幸(い)でまさむと、海を渡りましける間に』と記されている。この事から、景行大王一行は球磨から葦北の日奈久へ巡幸されたようである。
 球磨から日奈久に移動する経路として二通りあり、一つ目は球磨川沿いに下り、葉木(八代市坂本村葉木)から百済来(くだらぎ)を通って日奈久にでコースである。二つ目は、球磨川に沿って葦北町小口あたりから旧佐敷街道にぬけ、その後、田浦港(葦北郡田浦町)から船路で日奈久に向かったのか、或いはそのまま海岸線沿いに陸路を日奈久に向かったかであろう。

 葦北海岸(田浦港)から船路をとった場合、この経路は律令時代に太宰府と日向の西都原を結ぶ最短コースと重なり、書紀の筆者もこのコースをイメージしていたのではなかろうか。長田王もこのコースを利用したのか、万葉集にその時の歌『葦北の 野坂の浦ゆ 船出して 水島に行かむ 波立つなゆめ』 が載せられている。

 歌中の『水島』とは、あの清水の湧き出した水島であり、『野坂の裏』とは、この葦北の海岸だといわれれ、田浦町御番所鼻に歌碑が設置された。なお、この歌碑の近くに、景行大王巡幸にちなんだ御立岬がある。 

  所在地    熊本県人吉市大字山江字城内 城内天子
  連絡先 熊本県人吉市役所
  TEL 0966(22)2111

 

 

 

         

                         第三十五話 水島

 

  壬申(じんしん)に海路(うみつじ)より葦(あし)北(きた)の小島(こしま)に泊(とま)りて、進食(みをし)したまふ。時に、山部(やまべの)阿弭古(あびこ)が祖(おや)小左(をひだり)を召(め)して、冷(さむ)き水(みもひ)を進(たてまつ)らしめたまふ。是(こ)の時に適(あた)りて、島(しま)の中(うち)に水無(みづな)くして、所為(せむすべ)を知(し)らず。

 

 十一日に、海路から芦北の小島に泊って、お食事をされた。その時、山部阿弭古が祖小左を召して、冷水を献上させられた。この時にあたって、島の中には水がなく、小左は途方に暮れた。

 

 

 水島(みずしま)は球磨川河口に位置する、高さ11m、東西93m、南北37mほどの石灰岩からなる小島である。景行大王の当時、海岸線から水島まで3㎞程度あったと考えられ、古来、めでたい島として文献に登場し万葉集にも、長田王が詠んだに歌二首載せられている。

 かつて島の二ヵ所から清水が湧いていたが、現在は湧水も停止し、そこに『湧水之跡』の石柱が立っている。江戸時代の干拓計画で、国学者の和田厳足(わだいずたり)が、貴重な歴史遺産であり、海中に残すようにと肥後藩に進言し現在も島として存在する。しかし干拓が進み防潮堤から50mの距離となり満潮時には陸続きとなる。    

          写真をクリックすると拡大

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         水島       球磨川(八代市)      鏡ヶ池
 かつて水島から湧き出していた清水の正体は、球磨川の伏流水が日奈久断層により堰き止められ、地表に湧き出したものである。そのため断層がはしる、水島と河江小学校(宇城市小川町河江)を結ぶ地域では、かつて水田から豊富に湧水がわき出し、『鮒(フナ)取り神事』が行われる鏡ヶ池(鏡町)もその一つで、現在では何の変哲もない小池であるが、当時の池は周囲が一里半(6km)もある湖であったといわれている。
 また知人の話によると子供の頃、干潮時に水島の湧水之跡あたりで笹竹の竹筒を地中に差し込むと、竹筒から湧水が湧き出し、その水を飲んだりして遊んでいたとの事であった。その湧水も、昭和三十年頃から干拓地の灌漑用水に、地下水が大量に汲み揚げられる様になると停止した。なお八代市では一般家庭や工場用水の全てを球磨川の伏流水に頼っている。

 水島が存在する八代市南部は、かつて葦北と呼ばれ、その範囲も球磨川河口以南から水俣や天草の一部を含み、朝鮮半島との海上交通の門戸であった。そして八代市東部の山麓一帯に位置する九州高速道路の八代インター付近には、大塚古墳(全長56m)や八代平野最大の茶臼山古墳あるいは高取上の山古墳(墳丘長77m)、岡塚2号墳、長塚、車塚、むかいやぼ、を始めとした、前方後円墳群(五世紀後半~六世紀末)が遺されている。 

 これらの古墳の被葬者として、朝鮮半島の百済で活躍した火葦北国造阿利斯登(ありしと)や、その子の日羅(にちら)が思い起こされ、この地は彼らの故郷でもあった。また、この古墳群が九州西側における前方後円墳の最南端である。 
 この地域から昭和の始めに、大和王権と関係の深い三角縁神獣鏡が三面出土している。しかし古墳に対する本格的な調査が実施されておらず、出土した古墳など詳細については不明である。なお熊本県下で現在確認されている三角縁神獣鏡は、城ノ越(じょうのこし)古墳(宇土市)出土の一面だけである。この鏡の写真が第49話に掲載。

 実際に八代インター付近を歩いてみると、前方後円墳の形をした平地、あるいは破壊や消滅した古墳など、この地域に古墳が多く遺され管理が大変なのは理解できるが、他の地域に比べ首長墓に対する扱いが余りにもぞんざいで怒りすら感じる。 
 所在地   熊本県八代市植柳下町水島  水島
 連絡先   八代市立博物館 ・未来の森ミュージアム
 TEL 0965(34)5555

  

 

 

                              

                       第三十六話 鬼の岩屋

 

 則(すなは)ち仰(あふ)ぎて天神地祇(てんしんちぎ)に祈(の)みまをすに忽(たちまち)に寒泉崖(かんせんきし)の傍(ほとり)より湧(わ)き出(い)づ。乃(すなは)ち酌(く)みて献(たてまつ)る。故、其(そ)の島を号(なづ)けて水島(みづしま)と曰(い)ふ。其の泉(いづみ)猶今(なほいま)し水島の崖(きし)に在(あ)り。

 

 そこで天を仰いで天神地祇に祈ったところ、たちまち清水が崖の傍から湧き出てきた。それを汲んで献上した。それゆえ、その島を名付けて水島という。その泉は今なお水島の崖に存在する。

 

  

 八代市には龍峯(りゅうほう)地区や上片周辺を中心に、巨石を組み合わせた『鬼の岩屋(いわや)』と呼ばれる円墳(六世紀後半から七世紀初頭)が、石材の一部を遺すものを含め二十基あまり現存している。
 中でも、当時の海岸に近い場所に造られた古墳には、八代地域では産出しない、地元で水俣石(安山岩)と呼ばれる石材が使われ、水俣周辺から遙々と船で運ばれてきたのである。
 地元の古老の話として、かつて鬼の岩屋古墳は『あっちの畑にも、こっちの畑にも』、と言うように多数点在していた。それらは明らかにタイプの異なる、二種類の古墳群から成り、ある地点を境に、それぞれのグループを構成していた。
 しかし、この石材が庭の観賞用石材として持ち出されるようになると、これらの古墳も次々と姿を消していった。
 実際に現地を訪れると、残された岩屋古墳には平野部から山裾にかけて黒褐色の安山岩を使ったものと、これらより高位置に配置された白色石灰岩による、異なる二つのタイプの古墳が存在していた。古墳を築造する石材の違いや、その配置が何を意味するのか不明であるが興味深い古墳群である。
 なかでも谷川第一号墳は、石室の奥行4.6m、幅2.2m、高さ1.7mで、水俣から長島にかけて産出する安山岩を使用して築造されている。風化が進み墳丘の土が失われ石室が露出した状態であるが、本来は周溝を有する10m程度の円墳であったと考えられ、葬られた人物についても、円墳であることから葦北君の配下ものとも考えられている。                                                                    

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    鬼の岩屋古墳(谷川第一号墳)      門前古墳出土の石材

  写真の岡町谷川公民館に展示されていた石材は、大正6年開墾の際に偶然発見され、砂岩製で朱が塗られていた。表面には三個の同心円が彫られて、左側と中央の円文は直線で結ばれており、石材の上端を除く周りには石材組み合わせのための、ほぞが彫られている。この石材は熊本地震により損傷を受け現在ここにはない。
 これまで、野津古墳群(龍北町)を遺した火君が、八代に移動して築造したのが、大塚古墳を始めとした古墳群と考えられてきた。しかし最近の研究結果、両古墳群は平行して築造されていたことが判明し、火君とは異なる豪族ものである事が分かった。
 そこで気になるのが、八代市東部の山麓に展開する古墳群(葦北君)と野津古墳群(火君)の関係である。両古墳群は直線距離で七㎞と接近して造られている事から、これは大和王権により大国であった火国を牽制するため、火君の南に葦北君を配置したものと考えられる。

   所在地   熊本県八代市岡町谷川  谷川第一号古墳
  連絡先   八代市立博物館 ・未来の森ミュージアム
  TEL 0965(34)5555

  

 

 

         

                             第三十七話 豊邑

 

 五月(さつき)の壬辰(じんしん)の朔(つきたち)に、葦北(あしきた)より発船(ふなたち)したまひて、火国(ひのくに)に到(いた)ります。是(ここ)に日没(ひく)れぬ。夜冥(よるくら)く岸(きし)に著(つ)かむことを知(し)らず。遙(はるか)に火(ひ)の光視(ひかりみ)ゆ。
 天皇(すめらみこと)、挟杪者(かじとり)に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、『直(ただ)に火の処(もと)を指(さ)せ』とのたまふ。因(よ)りて火を指(さ)して往(ゆ)く。即(すなはち)ち岸に著くこと得(え)たり。


 五月の一日に、葦北(あしきた)から船出して、火国に到着された。ここで日が暮れた。闇夜のために岸に着くことができなかった。遙かに火の光が見えた。
 天皇は、船頭に詔して、『まっすぐに火の見える方向を目指せ』と仰せられた。そうして火に向って進と、岸に着くことができた。

 

 

 景行大王一行は遙(はる)か前方の光の方へ船を進ませ、着岸した所が地元伝承によると、松橋町豊福(豊邑)の西下郷島江口(えぐち)とされている。しかし不知火海は中世以来の干拓で内陸化し、浅川に架かる江口橋にその名を留めているにすぎす、当時ここが海岸線であったことを想像するのは難しい。
 ところが風土記にも、同様な記事が国名の由来として載せられ、この時着船した所が書紀の豊邑ではなく、火君発祥の地と考えられている八代郡火邑(氷川町宮原)と記されている。このことが火の国の所在地と相まって古来より論議されてきた所であるが、現在でもはっきりしたことは分からない。
 そして、船を進めた光とは一般的に不知火(しらぬひ)と解されているが、不知火の現れるのは九月一日(旧暦の八月一日)の午前一時頃で、景行大王が五月に船出していれば、不知火は現れず当然見ることはできない。また不知火は高台に上らないと見えず、船上から見えたのなら陸上の火であろう。

 地元でも、よほど不思議な光とみえ、海底の竜宮で灯籠に灯を点した竜頭といわれている。宇城市でも不知火が出現する、九月始に永尾(えいのお)神社と松合新港で景行大王巡幸を模した、「不知火・海の火祭り」が恒例行事として行われている。不知火については、その後の研究が進み、その正体が気温の変化で空気層の密度に違いを生じ、そのため起こる蜃気楼である事が判った。


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    江口橋             永尾神社の海中鳥居      船の線刻画

 写真の永尾(えいのお)神社の海中鳥居は、海の彼方から巨大なエイが神社近くの鎌田山まで登って来て空に消えた、との伝承に由来し、その時残されたエイの尻尾を祀ったのが永尾神社であり、この地域の氏子はエイを食さない。 

 不知火海を望む当時の宇土半島は島であり、有明海と八代海は松橋町の町名の由来でもある、『松葉の瀬戸』と呼ばれる細長い海峡で結ばれ海上交通の要衝であった。現在でも松橋駅から宇土にかけて、旧国道三号線に沿って低水田地帯が細長く続き、かつて海峡であったことをうかがい知ることができる。
 そして、この海峡を望むように向野田古墳を始めとし、継続的に築かれた火君歴代のものとされる、五基の前方後円墳(前期古墳)が遺されている。また宇土半島基部の装飾古墳(円墳)には、航海用の大型船や船団などの線刻画が多数描かれ、海上交易に携わる人々であったことを示している。 
 ところで火国について、万葉集の相聞歌に『肥人』と書いて、コマヒトと読ませているが、これはヒノヒトとしか読めず、そうすると『肥国』も、コマノクニと読まねばならなくなる。コマ(高麗)とは高句麗を表すことから、肥国のルーツは高句麗からの渡来が考えられ、その使用も肥国が先で火国が後である。

     所在地    熊本県宇城市不知火町永尾地区  永尾神社
  連絡先 熊本県宇城市役所
  TEL 0964(32)1111

  

 

 

      

                          第三十八話 火国

 

 天皇、其(そ)の火の光る処(もと)を問(と)ひて曰(のたま)はく、『何(なに)と謂(い)ふ邑(むら)ぞ』とのたまふ。国人対(くにひとこた)へて曰(まを)さく、『是八代県(これやつしろのあがた)の豊邑(とよのむら)なり』とまをす。

 亦尋(またと)ひたまはく、『其の火は、是(これ)誰人(た)が火ぞ』ととひたまふ。然(しか)るに主(ぬし)を得(え)ず。茲(ここ)に人(ひと)の火に非(あら)ずといふことを知りぬ。故(かれ)、其の国を名(なづ)けて火国(ひのくに)と曰(い)ふ。

 

 天皇は、その火の光った所を尋ねて、『何という村か』と仰せられた。土地の人が答えて、『これは八代県の豊村です』と申しあげた。

 また天皇は尋ねて、『その火 は誰の火か』と問われた。しかるに、その主を得ることができなかった。ここに、人の火でないことが明らかとなった。そこで、その国を名付けて火国という。

 

 

 

 『肥前国風土記』』の冒頭に、火国の国名の由来について、異なる二つの国名の由来が載せられている。第一話については日本書紀と同様な、海上に現れた怪火現象によるものであるが、第二話は陸上での怪火現象である。

 『肥前国(佐賀・長崎県)と肥後国(熊本県)は、もと一つの国であった。崇神大王の治世に、肥後国益城郡の朝来名の峯(雁回山)にいた二人の土蜘蛛を、肥君らの祖先である祖健緒組(たけおぐみ)が征伐した。ついでに国内を巡視中、八代郡白髪山(小川町日嶽)で野営すると、その夜、大空に火の塊があり山に届いて燃えた。健緒組は驚き大王に申すと、「火の下りし国なれば火国というべし」といわれ、火君健)緒組の姓名を与え、国を治めさせた。それで火国の名称が起こったのである。』
 ところで、肥前国の成り立ちを説明するのに、なぜ肥後八代の豪族の話から始まるのか不思議に思える。しかし筑紫君磐井の没落後、大和王権と直接繋がりを持ち、海上交易により大きな力を持った火君の墳墓とされる、野津古墳群(六世紀初頭~前半頃)における四基の大型前方後円墳の偉容が、その答えを雄弁に物語っている。

 これだけの古墳群であれば200年は要すると考えられるのに、実際には50年程度の短期間で築造されている。出土品として姫の城古墳より全国的にも珍しい石製品(さしば、きぬがさ)が多数出土し、石の文化を持つ筑紫磐井との関係が指摘されており、野津古墳群が石製品(装飾古墳)の南限である。

 この時期、古墳の大きさは大和王権により規制され、九州内で100mを超える前方後円墳は五基だけ、その内の二基、中ノ城古墳(墳丘長102m)と姫ノ城古墳(周濠を含めた古墳総長は115m)が、野津古墳群に存在する。なお古墳群から2㎞の位置にある大野窟古墳(六世紀後半、全長120m)は、円墳と考えられていたが近年の調査結果、野津古墳群に後続する前方後円墳と分かり、石室の高さ6.5mとこの点では国内最大規模ある。                                                   写真をクリックすると拡大

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           中ノ城古墳               大野窟古墳    陣内廃寺から見る雁回山

 この様な火国における力の源泉は海上交易によるもので、火国から近畿の大王家に石棺(阿蘇凝灰岩)を運ぶなど、海上輸送に携わる海人として大和王権から一目置かれる豪族であった。なお、当時の松橋から八代にかけての海岸線は現在の三号線あたりと考えられ、八代平野は近世以来の干拓によるものである。そのため、火国の力の根源は平野部によるものではなく、 海上交易によるものであった。

 怪火現象とは別に、火国発祥の地と言われる、氷川町宮原を流れる氷川の川筋は古来より燧石の産地であった。そのため貴重な交易品であった燧石が火国の国名の由来として考えられている。なお氷川の右岸台地に野津古墳群が存在する。 
 肥後国は、菊池川流域を治める『火中君』、それに球磨川河口の葦北君と呼ばれた『火弟君』、そして、これら日置氏とはルーツを異にし『火兄君』と呼ばれ、氷川右岸に野津古墳群を遺した、土着の多氏の三者で構成されていた。なお七世紀後半の日本建国時、対外的にそれまでの倭国から日本に書き換えられ、同様にこの時期に肥国が火国になり、さらに肥前と肥後の二国に分かれたと考えられる。
 城南町は、塚原古墳群の存在や肥後国府が最初に置かれたことから火国の中心地の一つとされ、写真の様に陣内(じんない)廃寺から見る雁回山が最も美しい。
  所在地 熊本県宇城市城南町陣内  陣内廃寺礎石跡
     連絡先   熊本県下益城富合町役場
  TEL 096(357)4111

  

       

 

        

                        第三十九話 高来県

 

 六月の辛酉(しんいう)の朔にして癸亥(きがい)に、高来県(たかくのあがた)より玉杵名邑(たまきなのむら)に渡(わた)りたまふ。


 六月三日に、高来県より玉杵名邑(たまきなのむら)に移られた。

 

 

  肥前国風土記に、景行大王が玉名郡長洲町の行宮において、対岸の山(雲仙岳)は独立した島なのか、或いは陸地に続く山なのかを確かめさせた。
 そのため大野宿祢(おおのすくね)が現地(島原市有明町大野ヶ浜)に着くと、この山の高来津座(たかくつくら)という神が迎えに現れた。そのため神の名をとり高来郡の郡名と、大野宿祢の上陸地を大野と名付けられた。現在でも有明海が狭くなる、長洲町腹赤(はらか)海岸と対岸の大野ヶ浜の間をフェリーが就航している。
 かつての高来県は、諫早市から島原半島北部にかけ、その中心地も諫早湾に面した諫早市高来町一帯で、雲仙市吾妻町には大野宿祢と伝わる、守山大塚古墳(全長80m・四世紀前半)が遺されている。しかし六世紀になると磐井戦争の敗戦に伴い、その中心地も諫早湾入り口に当たる国見町に移った。
 また同風土記に、『肥前国と肥後国はもと一つの国』とあるが、肥前と肥後は、間に筑後を挟み直接陸路での移動はできず、海の道ともいえる有明海の海上交通で結ばれ盛んに行き来していた。その際に肥後や筑後から出港すると、有明湾内を流れる左回りの潮流により諫早湾へ流れ着くことになる。そのため諫早湾は有明海における海上交通の要所であった。
 この時代、諫早湾は湾奥部まで入り込み大村湾と近接していた。そのため船を、諫早湾に流入する半造川と大村湾に流入する東大川の二つの河川が最近接する、諫早市小船越(おふなこし)町の南付近で、最短距離の600mを運河で繋ぎ移動させたと考えられる。そうすれば有明海を経由することなく波静かな大村湾を利用し、容易に佐世保や五島列島、その先の朝鮮半島へと移動できた。現在も、船越(ふなこし)や小船越の地名が諫早市内に遺されているのは、その名残である。なお、諫早市の地名説話では船越の地名について、半造川と東大川の上流部で『船形にくぼんだ所』を人々が移動した事に由来すると記されている。
 そして五世紀になり、筑後地域の勢力が朝鮮半島や東シナ海における交易権を把握すると地政学上、大村湾を利用する航路が重要視されるようになった。その結果、大村湾の東岸に、ひさご塚古墳(全長59m・五世紀前半)を始めとした、前方後円墳四基を含む六基の古墳が築かれた。
 また宇土半島の、大王が輿(こし)を止めたという御輿来(おこしき)海岸(宇土市下網田町)から雲仙岳を望むと、干潮時には波紋が現れ、当に神の住まいするに相応しい景観となる。伝承として、火の国を出発した景行大王一行は、不知火海から宇土半島先端のモタレノ瀬戸を通過し有明海に出、その後、大王が輿を止められたという御輿来海岸から、対岸の宮崎鼻(口之津町宮崎)に上陸したという。これらの伝承は両地域間に古来より人々や物の往来があったことを伝えている。

 ところで当時の宇土半島は島であり、八代、豊邑と海路で移動したのなら当然、『松葉の瀬戸』と呼ばれた海峡を利用し島原半島に向かったであろう。 

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        雲仙岳(御輿来海岸より)  長洲フェリー      明海沿岸位置関係

  所在地 長崎県島原半島  雲仙岳
  連絡先 長崎県雲仙市役所
  TEL  0957(38)3111

  

 

 

        

                           第四十話 津頬

 

 時に、其の処(ところ)の土蜘蛛(つちぐも)の津頬(つつら)を殺(ころ)したまふ。

 

 その時に、 そこにいる土蜘蛛の津頬を殺害された。

 

 

  玉杵名邑(たまきなむら)(玉名)では、『在地勢力の津頬(つつら)を殺したまう』、との記述だけでいかにも素っ気ない。ところで、土蜘蛛の津頬とは一体何者であろうか。土蜘蛛と記されていることから速見邑の土蜘蛛と同様、玉杵名邑にも鉄に携わる集団がいたのであろう。そして砂鉄を用いる製鉄技法の、『たたら』と土蜘蛛の『つつら』はよく似ており、津頬とは製鉄集団の首(かしら)であったことが推測される。
 玉名への、たたら製鉄技法の伝播は、同族であった出雲(島根県)の日置氏により菊池川流域もたらされた。その時期は、中国山地の山間部で発見された最古の、たたら製鉄遺跡が六世紀中頃のものである事から、玉名への伝来はそれ以降と考えられる。これにより荒尾から玉名にかけ、小袋山の南麓一帯には製鉄遺跡(30ヶ所)や須恵器の窯跡(60ヶ所)が密集し、これらを経済基盤として繁栄したのが日置(へき)氏である。

 日置は地域により、ヘキやヒキとも呼ばれ、製鉄や須恵器の製作に携わる技術集団であった。そのため日置の地名が遺された各地には、製鉄跡や須恵器の窯跡が遺されている。その後、玉名から熊襲国に対する最前線基地としての八代(日置町)へ、さらに薩摩半島の日置郡にも伝わっていった。

 ところで景行大王の遠征は、日置氏の活躍する遙か以前の事であり、玉名で最初に前方後円墳が築かれるのが、山下古墳(四世紀後半・全長59m)である。二基の舟形石棺と二基の壺棺が納められていた。そして玉名から大牟田一帯にかけての古墳の主体部には、舟形石棺(四世紀後半~五世紀)が用いられているものが最も多く、この石棺と紀氏(きのし)の分布とが一致することから、玉名における最初の在地権力者は大和王権と関係の深かった紀氏であった。

 そして玉名や山鹿といった、菊池川流域の勢力を征圧するための最初の上陸地点が、有明海における水運の要衝であった、長洲(長渚の浜)地方である。一帯には景行大王にまつわる『女石宮』伝説を始めとした伝説や伝承が多く遺され、最初に大和の勢力が扶植された地域であることを伝えている。または、江田船山古墳の多くの百済系副葬品から対岸の島原半島のみならず、朝鮮半島とも盛んに行き来していたことが分かる。

 紀氏の次に玉名地域で力を付けてきたのが、菊池川中流域の和水町に清原(せいばる)古墳群を遺した勢力である。なかでも全国的に知られる、銀象嵌大刀が出土した江田船山古墳(全長62m、五世紀末)が最大で最初に築かれた。古墳の被葬者について、船山古墳から1㎞離れた鶯原で、江戸時代(1794年)に骨壺に収められた、日置氏一族の銅板墓誌(平安時代初期)が発見され、船山古墳とあまりにも近く、古墳の子孫が埋めたと想像すると、船山古墳の主は日置氏とも考えられる。その後、銅板墓誌が出土した地に日置部公墓碑が建立されたが、1882年に銅板墓誌が盗掘を受け、それ以来行方不明となっている。
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           疋野神社            日置部公墓碑     江田船山古墳

 その後、700年間にわたって菊池川流域に君臨してきた古代豪族の日置氏も、菊池氏の台頭に伴い没落し、彼らの氏神であり、かつては官社として著名な神社であった、疋野(ひきの)神社も荒廃し社殿の跡さえ不明となった。これを憂いた肥後藩により江戸元禄時代に玉名市立願寺に社殿が再建された。

  所在地  熊本県玉名市立願寺460 疋野神社
  連絡先  歴史博物館 こころピア
  TEL  0968(74)3989

  

 

 

      

                       第四十一話 阿蘇国

 

 丙子(へいし)に、阿蘇国(あそのくに)に到りたまふ。其(その)の国、郊原壙(かうげんひろく)く遠(とほ)くして、人居(じんきょ)を見(み)ず。天皇の曰(のたま)はく、『是(こ)の国に人有(ひとあ)りや』とのたまふ。時に二神有(ふたはしらのかみあ)り。阿蘇津彦(あそつひこ)・阿蘇(あそ)津媛(つひめ)と曰(い)ふ。

 

 十六日に、阿蘇国にお着きになった。その国は、原野が広く遠くまで続いていて、人家が見えなかった。天皇は、『この国に誰かいるか』と仰せられた。その時、二柱の神がいた。阿蘇津彦・阿蘇津媛といった。

 

 

 景行大王は、菊池川を遡って山鹿で里人に、松明(たいまつ)を掲げての出迎えを受け(山鹿灯籠踊の由来)その後、阿蘇に入ると阿蘇津彦・媛の二神が現れ、『何(なに)ぞ人無(な)けむ』と答えたことから、「何」が「阿」に通じ、「何そ」が「阿蘇」になったという。

 火国が発祥の地ともいわれる、古代豪族の多氏(おおし)は各地に存在し、古事記に九州内では火君、大分君、阿蘇君が同族と記されている。彼らは阿蘇谷や諏訪湖を中心とした信濃の地を始めとし、全国各地の未開の低湿地帯を水田地帯へと甦らせている。  そして阿蘇の場合、この様な開発に伴う開拓神と、火山信仰において人格化された火山神の健磐龍命(たついわたつのみこと)とが結びついたのが、阿蘇一宮に鎮座するの阿蘇神社(肥後一宮)であり、阿蘇山信仰を司る神官が阿蘇国造家(あそこくぞうけ)である。

 阿蘇神話によると、健磐龍命(阿蘇津彦)が大和から阿蘇谷(一宮辺り)に農耕移住者を引き連れ入植してきた。そして南郷谷(高森辺り)に居住していた在地勢力の日下部(くさかべ)氏との強調をはかるため、その娘(阿蘇津媛)を娶った事になっている。
当時、阿蘇カルデラ内へは大分県側から出入りしていたため、阿蘇谷の阿蘇市一宮町手野地区に多くの古墳が遺され、この辺りから開拓を始めたと考えられる。中でも一宮中通にある長目塚(全長111m・四世紀後半)は、阿蘇で最初に築かれた前方後円墳で熊本県下最大級である。そして、この古墳の被葬者こそ、阿蘇神話に語られ阿蘇神社の主祭神でもある健磐龍命その人との説もある。
 また、古代阿蘇への入植者の本願の地が、大和国の山辺郷であったためとも言われているが、県内では阿蘇神社を中心として一宮町に山辺姓が多く残されている。この山部とは朝廷に食事を献上する最も古いタイプの部民であり、あの水島において冷水を献上した山部阿弭古も山辺姓である。
 ところで、神社の参道は本殿に向かって、まっすぐ延びているが一般的であるが、阿蘇神社の場合、阿蘇山から神様を迎えるため、参道は本殿に向かって横に延びた横参道となっている。参道から南を望めば阿蘇中岳火口に、北には国造神社が位置する。なお長目塚古墳の写真から、古墳背後の高い山が高岳で、その右隣の中央火口(中岳)から噴煙を上げているのが分かる。 また江戸時代に建立された神社の楼門(高さ18m)は、神社では珍しい仏閣様式の二層式楼門であったが熊本大地震で倒壊した。 

           写真をクリックすると拡大                  

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    長目塚古墳            阿蘇神社楼門          横参道(南を望む)
 また神話では、健磐龍命が立野の火口瀬を蹴破、カルデラ内の水を流し開拓したとされるが、数万年前にカルデラはほとんど干上がっていた。 阿蘇盆地は周囲128㎞の外輪山を中央火口丘群により南北に仕切られ、北側が阿蘇谷、南側が南郷谷と呼ぶ。 
  所在地    熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083の1  阿蘇神社
 連絡先  肥後一の宮阿蘇神社
  TEL 0967(22)0064

  

 

 

     

                       第四十二話 阿蘇黄土

 

 忽(たちまち)に人(ひと)に化(な)りて遊詣(まいき)て曰(まを)さく、『吾(われ)ら二人在(ふたりはべ)り。何(なに)ぞ人無(な)けむ』とまをす。故(ゆえに)、其(その)の国を号(なづ)け阿蘇(あそ)と曰ふ。


  すぐさま人の姿に化って、天皇の許(もと)に参上して、『私ども 二人がおります。どうして人がいないことがありましょう』と申しあげた。それゆえ、その国を名付けて阿蘇という。

 

 

 
 熊本県北部は、弥生時代の遺跡から鉄器の出土量が多いことで全国的にも知られ、中でも山鹿市の方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡が有名である。この他、外輪山南側に位置する大津町の西弥護免(にしやごめん)遺跡などから、大量の鉄器の集積が見つかっている。

 これら県北の遺跡は、いずれも弥生時代後期の遺跡であるが、製鉄時に副産物として発生する製鉄スラグが見つかっておらず、製鉄の開始時期については不明である。しかし、当時貴重であった鉄器の大量出土は、鉄が全て朝鮮半島からの輸入によるものだけでは説明がつかず、そのため阿蘇黄土から鉄を取り出していたとも考えられる。

 この阿蘇黄土を使った製鉄が、北九州の高校生により一宮地区で行われ、写真の様な簡易炉に、上から木炭と黄土を交互に投入し、送風機で下から空気を送り込むというもので、得られる鉄の量は作業や状況により、歩留まりも大きく異なるとの事であった。

 見学して思ったことは、火力を強めるための送風が大切であり、当時はもう少し大がかりであったことから、地形的に常に風が吹き抜ける谷間のような所でなければ、火力を上げることはできなかったであろう。そのため住居遺跡では鍛冶工房跡は出土するものの、製鉄遺跡が見つからないのはそのためであると考えられる。

 阿蘇黄土は、阿蘇盆地がまだカルデラ湖であった時期に生成され、そのため沼鉄(ぬまてつ)とも呼ばれ鉄分の含有量が七割と高く、焼くと簡単にベンガラに変化する。乙姫神社の近くに住む古老話では、太平洋戦争時に銑鉄の原料として、八幡製鉄所に列車で盛んに運ばれた。

 今回、実際に阿蘇黄土を使ってベンガラ作りに挑戦してみた。まず『第十五話、海石榴市』に掲載した写真の阿蘇黄土を、木づちで細かく砕きフルイにかける。次にフルイを通過したパウダー状の黄土のを、均一に熱が加わる様に鉄鍋上で20~30分間焼成すると、写真のような暗赤色のベンガラに変化した。思ったより簡単にベンガラにすることができ、熊本県内の多くの古墳に、このベンガラが用いられているのも肯ける。

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  ベンガラ(阿蘇黄土)       阿蘇の原野     簡易炉と鉄塊(阿蘇黄土)
 そして、阿蘇市乙姫一帯の水田には無尽蔵ともいえる阿蘇黄土の鉱床が広がり、赤水の地名も、阿蘇黄土により川の水が赤く濁って流れることから赤水の地名が起こったという。現在、家畜の飼料用として民間企業にり黄土の採掘が続けられている。
 かつての阿蘇カルデラは、森林地帯であったと考えられるが、なぜか景行大王の巡行時には広大な草原となっている。これは黄土から鉄を取り出す際に、大量の木材(木炭用)を使用したため、盆地内の森林が伐採し尽くされ草原と化したのであろう。その草原も、現在では人手不足のため原野での野焼きが難しくなり、その面積も減少してきている。そのため植生も草原から低木林に変化しつつある。
  所在地  熊本県阿蘇外輪山(阿蘇の原野) ミルクロードからの眺望
 連絡先  熊本県阿蘇市役所
 TEL 0967(22)3111

 

 

 

 

       

                        第四十三話 高田行宮

 

   秋七月(あきふみづき)の辛卯(しんぼう)の朔(つきたち)にして甲午(かふご)に、筑紫後国(つくしのみちのしりのくに)の御木(みけ)に到り、高田行宮(たかたのかりのみや)に居(ま)します。時に僵(たふ)れたる樹(き)有り。長(ながさ)さ九百七十丈(ここのほつえあまりななそつえ)なり。
 百寮(ももつかさ)、其の樹を踏(ふ)みて往来(かよ)ふ。時人(ときのひと)、歌(うたよみ)して曰(いは)く、『朝霜(あさしも)の 御木(みけ)のさ小橋(をばし) 群臣(まへつきみ) い渡(わた)らすも 御木(みけ)のさ小橋(をはし)』といふ。


 秋七月四日に、筑紫後国の御木に至り、高田行宮におられた。時に、倒れた樹があり、長さ九百七十丈もあった。  
 役人たちは、みなその樹を踏んで出仕した。時の人は歌を詠(よ)んで、『(朝霜の)御木(みけ)の小橋(おばし)。宮仕えの役人たちがお渡りになることよ。この御木の小橋を』といった。

 

 

  高田行宮の地については、高泉説の他に高田町岩津や三池の大間(だいま)説などが挙げられていたが、日本書紀に記された巨木伝承と、それに伴い地中より出土する炭化木が決め手になり高泉説が採用され大正四年の秋、三池郡教育会によりこの地に記念碑が立てられた。 

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            高田の行宮碑(高泉説)             大間神社(大間説)
 日本書紀と同様な大木伝承が、筑後国風土記の三毛郡にも載せられている。『昔、郡家の南に棟木(おおち)が一株生えていた。その高さは九百七十丈(2900m)であった。朝日の影は、肥前国藤津の郡にある多良の峰を覆ってしまい、夕日の影は、肥後国の山鹿の郡荒爪山と覆ってしまった。これにより御木(みき)の国といった。後の世の人が三毛といった。今はこれを郡の名としている。』

 日本書紀の歴木(くぬぎ)に対し、風土記では棟木(栴檀)と木種の違いがみられるものの、元は一つの伝承であったと思われるが、書紀や風土記に記された様な、長さ九百七十丈(2900m)の巨木など、そもそも存在しない。

 それで中国の複数の古典に、東海中に扶桑木(ふそうぼく)という巨木(神木)が生えていたことが記され、中には木の長さが数千丈と記された書もある。その中の古代神話を編纂した中国古典の神異経に、『扶桑木の大きさは、高さ八十丈(240m)、葉の長さ一丈(3m)、幅六尺(180㎝)』と記され、このような巨木の生えている扶桑国(日本の異称)が、東海の大海中に存在すると考えられていた。
 そのため三池で出土する巨木を見て、人々は中国古典に記された扶桑木に違いないと考えた。出土する埋もれ木は、木種や大きさも様々で、中には成長が早く巨木になる栴檀(せんだん)も含まれていたため風土記では出土する巨木が栴檀となった。
 ところが櫟(くぬぎ)は、栴檀と異なり巨木になり難く、巨木に指定されている様な櫟は見られない。それで同じブナ科でも一般的に椎(しい)と呼ばれるスダジイは、温暖な地域で群落をなし、現在各地で数百本が巨木に指定されている。そのため書紀に記された歴木とは椎の大木をいっていると考えられる。なお大牟田市で一番多い木種は櫟とのことで書紀に記された歴木と重なり興味深い。
 また御木国の名称は、扶桑木が前提となって三毛(御木)の地名起源説話となっているが、本当は御木から三毛に変わったのではなく、後で大木伝承を地名に結びつけたのである。高田行宮碑のある歴木の地名も、歴木の伝説から始まったとされるが、実際には明治九年に高泉と平野が合併し歴木となった。
  所在地  福岡県大牟田市歴木高泉 高田の行宮碑
  連絡先  福岡県大牟田市立三池カルタ・歴史資料館
  TEL 0944(53)8780

  

 

 

         

                     第四十四話 歴木の伝承

 

   爰(ここ)に、天皇問(すめらみことと)ひて曰(のたま)はく、『是(これ)、何(なに)の樹(き)ぞ』とのたふ。一老夫有(ひとりのおきなあ)りて曰(まを)さく、『是(こ)の樹は歴木(くぬぎ)なり。

 嘗未(むかしいま)だ僵(たふ)れ ざる先(さき)に、朝日(あさき)の暉(ひかり)に当(あた)りては、即(すなは)ち杵島山(きしまのやま)を隠(かく) し、夕日(ゆふひ)の暉(ひかり)に当りては、亦阿蘇山(またあそのやま)を覆(おほ)ひき』とまをす。

 

 そこで天皇は尋ねて、『これは何の樹か』と仰せられた。一人の老人がおり、『この樹は歴木でございます。
 昔、まだ倒れず立っていた時には、朝日の光を受けて、その影は杵島山を隠し、夕日の光に当ると、また阿蘇山を隠すほどでした』と申しあげた。

 

 

 日本書紀に記された歴木(くぬぎ)とされる大木が、2001年12月に大牟田市大字歴木で『堂面川ふれあい公園』の河川工事中に偶然出土した。今回出土した二本の埋もれ木は焼いた跡が見られ、人の手が加わっているとの指摘もあるが、実物を見ると黒褐色で炭化が進み明らかに地質時代のものである。    

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             歴木の埋もれ木              他で出土した木片          杵島山(大牟田側より) 

 これを地質学的にみると、火山活動を繰り返してきた阿蘇山が、今から九万年前に大噴火を起こし、人手の入った事のない歴木(椎)の群落である巨木の森が、火砕流により広範囲になぎ倒され焼き払われた。焼け残った樹木も幹や枝の表面を火砕流に焼かれたため、木種が分かる程良好に保たれ、そのため筑後国風土記では埋もれ木が棟木(栴檀)とされた。
 この大噴火で焼き払われた椎の森が、大牟田市歴木町一帯であり、この時発生した火砕流は大規模なもので、噴火の跡は九州一円で見ることができる。宇土半島から切り出され、近畿地方の大王陵に石棺として収められた馬門石(阿蘇溶結疑灰岩)も、この時の大噴火による火砕流が固まったものである。
 そして、三池一帯から出土する巨大な埋もれ木を、中国古典に記された扶桑木(神木)と考え、まだ倒れずに立っていた時には、『その影は杵島山(島原半島)を隠し』とか、夕日は『阿蘇山を覆い』といった表現になった。なお杵島山や阿蘇山は古来、神々の住む神聖な山とされてきた。また『時に、倒れた樹があり』との記述からも、それが埋もれ木であったことが分かる。
 巨木伝承は、他の風土記や記紀にもみえ、各地に巨木が存在していたことが窺える。しかし巨木伝承と埋もれ木が結びついた例は珍しく、埋もれ木の正体は有史以前の火山活動により発生した埋もれ木が、天皇巡幸説話と結び付いたものであろう。 

 このような大木伝説が、官選である日本書紀に取り上げられているのは、中央政権により律令制度を推し進めるなかで、各地の状況を把握する必要があり、その中で得られた資料に三池の場合大木伝承があった。その後、地誌である風土記の提出など情報収集を強化させていった。 
 今回出土した二本の巨木のうち、一本は木質が良好で木工所に引取られたが、他方は地中での保存状態が悪く、木工製品に適さず諏訪神社境内に持ち込まれた(写真)。持ち込まれた歴木は、その後次第に風化していき消滅したのか、数年後に訪れた時には、既にその姿はなかったか。                

     所在地 大牟田市久福来諏訪神社  埋もれ木 
  連絡先 福岡県大牟田市立三池カルタ・歴史資料館
  TEL 0944(53)8780

  

 

 

       

                         第四十五話 腹赤魚

 

  天皇の曰(のたま)はく、『是の木は神木(くすしきき)なり。故(かれ)、是の国を御木国(みけのくに)と号(なづ)くべし』とのたまふ。

 

 天皇は、『この樹は神木だ。それゆえ、この国を御木国と名付けよう』と仰せられた。

 

 

 御木(みけ)の地名説話について、歴木の大木伝承とは別に大和朝廷への服属儀礼である、大御食(おおみけ)からきた御食と考える説がある。
 朝廷もしくは神に供える供物(贄(にえ))を意味する、古語の御食が地名起源であり、古代において三池の地から朝廷に食(け)を献上していたため、ミケ(三池)の地名が起こったのである。
 このに御食ついて、時代は下るが朝廷の儀式のことを書いた公事根源(くじこんげん)の元旦、節会(せちえ)の一説に、「腹赤(はらか)の贄(にえ)とて、魚を筑紫より奉(たてまつる)るなり。昔はやがて節會などに供しけるにや・・・・・」とあり、有明海で捕れ腹赤(はらか)と呼ばれる魚を使った料理が、正月の節會(せちえ)といった特別な日に催されていた。
 それは極めて限定的な食事であり、遠くから各地の特産物を朝廷に送らせることは、統治する国土の広さを体感できると同時に、その地で育った産物を食する事により、その地の精霊をも身につける事ができると考えられていた。
 そして朝廷に献上していた腹赤魚(はらかのうお)とは、肥後風土記に『数が多く、外見が鱒(ます)に似た魚』と記されていることから、有明海で捕れるグチのことであろう。高良大社の古文書によると、朝廷と同様に三池地方より高良大社に腹赤魚が献上され、高良は古くはカハラと訓読みされていたことから、腹赤魚と呼ばれるようになったとも記されている。

 朝廷にこの魚を献上するようになったのは、天智天皇が皇子の時、みやま市瀬高付近で腹赤魚を食したのを縁に献上されるようになり、瀬高市太神にある古社の釣殿宮は天智天皇が祭神と言われている。なお瀬高市太神には釣殿宮をはじめとして、いくつもの古社が近接しその数は尋常では無く、近くには高田行宮の候補地の一つとされる高田町岩津があることなどから、かつてこの一帯は何か特別な場所であったと思われる。

              写真をクリックすると拡大

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              腹赤魚(グチ)                  釣殿宮     女石神社(御神体)     
 延喜式によると、太宰府からを朝廷に献上した国は、有明海に面した筑後(三池)と肥後(長洲)の二カ国で、有明海沿岸には景行大王と魚に関する伝承が多く、この一帯が朝廷儀式における、腹赤魚の調達地であった事を伝えている。なお現在でも女石神社の鎮座する長洲町上沖洲地区を腹赤と呼んでいる。
 この腹赤魚の調達を取り仕切り、太宰府まで運んだのが他ならぬ菊池川流域に君臨した日置(へき)氏であった。腹赤魚を用いた宮中行事を定着させ、疋野(ひきの)神社を官社に昇格させるなど、中央に対する動きも活発であった。
 腹赤魚と呼ばれたグチも、時代が下がり江戸時代になると、縁起の良い魚といえば鯛を指すようになり、祝いの席にはグチに替わり鯛が出される様になった。写真の不知火海のグチは、正式名をイシモチいい体色により赤グチと白グチに分けられ、すり身にすると美味しい魚である。
  所在地  熊本県宇城市不知火町松合 (水揚げ場)
  連絡先  宇城市松合漁業協同組合
  TEL 0964(42)2009

  

 

 

       

                         第四十六話 八女県

 

  丁酉(ていいう)に、八女県(やめのあがた)に到(いた)りまし、則ち藤山(ふじやま)を超(こ)えて、南(みなみのかた)粟岬(あわのさき)を望(みそこなは)したまひ、詔(みことのり)して曰はく、『其(そ)の山の峰岫重畳(みねくきかさな)り、且美麗(またうるは)しきこと甚(にへさ)なり。若(けだ)し神(かみ)其の山に有(ま)しますか』とのたまふ。

 

  七日に、八女県にお着きになり、そうして藤山を超えて、南の方の粟岬を望見されて、詔して、『その山の峰々が幾重にも重なって、たいそう美しい。もしかすると神がその山におられるのではないか』と仰せられた。

 

 

 大牟田市東部の三池から次の巡幸地である八女に到着し、そして『藤山を超えて、南の方の粟岬を望見され』と記された、藤山の地については、現在のどの位置を指しているのであろうか。八女に通じる古代の藤山道沿いに藤山町の地名が遺され、東側が未納連山西端麓に当たることから、この辺りが藤山ではなかろうか。
 また粟岬についても、現在では想像し難いが、当時の有明海は内陸部の甘木辺りまで入り込み(口絵『大王巡幸経路地図』参照)、この辺りが海岸線であった。そのため藤山を超えて南の方といえば、当時は入り組んだ岬であった小栗峠辺りが想定されるが、現在と海岸線が大きく異なりよく分からない。

 ところで、八女県(やめのあがた)(八女市一帯)は、大和王権と戦って敗れた(527年・磐井戦争)ものの、古代史上最大の戦いであった筑紫君磐井の本拠地である。その寿墓とされる岩戸山古墳(六世紀始・墳丘長約135m)は、この時期において全国三位の巨大さを誇り、磐井の持つ力の大きさを遺憾無く示している。なお岩戸山古墳は筑後国風土記から、被葬者と築造年代が推定できる珍しい古墳でもある。

 当時、石人石馬に代表される石の文化が有明海を取り囲み、筑紫島(九州)を豪族名に持つ筑紫磐井が盟主の座のあった。その勢力範囲は筑紫君の象徴であった、石人石馬が出土する火国(肥前・肥後)や豊国を勢力圏とし、特に火君とは、「筑紫火君は筑紫君の子、火中君の弟」と記され、氏族結合から両者は血縁関係にあったことが分かる。

 外交においても朝鮮半島との交易権を把握し、糟屋津(港)を通じて朝鮮半島諸国とも盛んに交易していた。また古墳に近接する別区の石製品は、猪を盗んだ盗人に対し、それを裁いている様子を表現しているとも言われ、このことから磐井は司法権や外交権を持つ、大和王権と対等な国家であったと考えられる。従って『筑紫磐井の乱』ではなく『磐井戦争と表記したい。

 最近、八女市の鶴見山古墳(墳丘長約88m・六世紀中頃)から等身大の武装石人(写真参照)が出土した。古墳の築造年代から葬られた人物は、筑紫君 磐井の次世代の人物で、戦いによる連座を恐れ、糟屋屯倉(糟屋郡付近)を差し出した葛子(くずこ)とも考えられている。このことから筑紫は磐井戦争で、つぶされたのではなく鶴見山古墳を造るだけの力を保持していたのである。

 ところで磐井戦争後の六世紀中頃になると、筑紫磐井の勢力圏であった地域で、鶴見山古墳や鶴見古墳(川辺・高森古墳群)、鶴見塚古墳(粕屋町)などの首長墓に、鶴の付く古墳名が見受けられ、山の名にも鶴見岳(別府市)が存在するなど、これら同時代の古墳と筑紫との関係が気になる。 

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   武装石人(鶴見山古墳)  八女津媛神社    石人石馬(岩戸山古墳別区)
  所在地  福岡県八女市矢部村字神屈  八女津媛神社
  連絡先 福岡県八女市役所 
  TEL 0943(23)1111

  

 

 

         

                        第四十七話 水沼県主

 

  時に水沼県主猿大海(みぬまのあがたぬしさるおほみ)、奏(まを)して言(まを)さく、『女神有(ひめかみま)します。名を八女津媛(やめつひめ)と曰(まを)す。常に山中(やまのなか)に居(ま)します』とまをす。
 故(かれ)、八女国(やめのくに)の名、此(これ)に由(よ)りて起(おこ)れり。

 

 その時に、水沼県主猿大海(みぬまのあがたぬしさるおほみ)が奏上して、『女神がおられます。名を八女津媛と申しあげます。常に山中においでです』と申しあげた。それで、八女国(やめのくに)の名は、これによって起ったものである。

 

 

 八女県に隣接する、水沼県(三潴郡)を治めていたのが水沼(みぬま)であり、その名が示すように、この時期、有明海が内陸部まで入り込み筑後平野はまだ形成されておらず、沼や葦が茂り水鳥が多数生息する湿地帯であった。

 そして、古代において山や森は神の住む神聖な場所であり、各豪族はそれぞれ独自の先祖神にまつわる氏神をもっていた。それが水沼の場合、矢部村神窟に住む女神八女津媛のいる山であり、この八女津媛から八女の地名が起こったという。八女津媛神社の創建は、719年とされ、八女津姫が山中で神に奉仕し、斎祀った場所に社殿が創建さてたと伝わる。その後、各豪族の持つ氏神は高良大社に統一されていく。

 ところで、航海に携わる水沼が、海とは関係のない山中に住む、女神の八女津媛を祀るとはどういうことなのか。元々水沼は、隼人をルーツとする海洋性民族であり、航海用の船を造るための木材を必要としていた。そのため船材としての木材を、神の住む矢部村の山中から切り出しており、そのため山に住むとされる神の許を請はねばならず、それが水沼の場合、矢部村の神窟に住むという女神の八女津媛であった。

 しかし水沼の治める三潴の地と船材の調達地である矢部村との距離が大きく離れているうえ、当時の陸路は整備されておらず陸路での運搬はまず考えられない。そこで矢部川の水運を使って材木を移動させていたと考えられる。矢部村で切り出した材木を筏に組み、矢部川を利用して下流域の水沼県に隣接する八女辺りまで流せば、容易に移動することができた。そう考えると、矢部村からの木材の集積地であった八女の地名も、元は木材を切り出す山から山津媛であったが、なまって八女津媛となり、そこから八女に変化したと考えると納得できる。   
 三潴には水沼の二代(二基)にわたる墳墓が、かつての水沼県内であった久留米市大善寺に遺されている。御塚(おんつか)古墳は、帆立貝式前方後円墳(墳丘が全長約65m、五世紀後半)で三重の周濠を巡らし水沼別のものとされる。隣接する権現塚(ごんげんつか)古墳も二重の濠を持つ大円墳(墳丘の直径は約50m、六世紀初頭)で、周濠を含めると直径約150mにもなり、猿大海(さるおおみ)の墳墓と伝わる。なお帆立貝式前方後円墳は、大王家の外親に許された墳墓形式ともいわれる。

 また両古墳に対し、国道を隔てて隣接する玉垂宮大善寺は、元々、二基の古墳を守り斎祀るものであった。そのため拝殿が古墳を背にするように配置され、参拝すると後ろに控える古墳を祭ることになり、両者の間の密接な関係があった。ところが磐井戦争の敗北により、それまで御塚古墳(帆立貝式前方後円墳)に葬られ、神社の祭神でもあった国乳別が表から姿を消し、玉垂命として祀られるようになった。それも時代が下り宇佐神宮が勢力を増すと、祭神に八幡大神を加え神仏習合の神社玉垂宮大善寺となるなど、玉垂命がどの様な神なのかその実態が益々分からなくなっていった。  

御塚古墳・権現塚古墳の全景写真は、古墳公園内の案内板の写真を撮影したものである。

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     御塚・権現塚古墳                玉垂宮
  所在地  福岡県久留米市大善寺町宮本  御塚・権現塚古墳
  連絡先 福岡県久留米市役所 
  TEL 電話番号:0943(23)1110

  

 

 

           

                          第四十八話 的邑

 

  八月(はつき)に、的邑(いくはのむら)に到(いた)りて進食(みをし)したまふ。是(この)の日に、膳夫等(かしはてら)、盞(うき)を遺(わす)る。故、時人(ときのひと)、其(そ)の盞(うき)を忘(わす)れし処(ところ)を号(なづ)けて浮羽(うきは)と曰(い)ふ。
 今(いま)し的(いくは)と謂(い)ふは訛(よこなま)れるなり。昔(むかし)、筑紫(つくし)の俗(くにひと)、盞(うき)を号(なづ)けて浮羽(うきは)と曰(い)ひしなり。

 

 八月に、的邑(いくはのむら)に着いてお食事をされた。この日に、膳夫(かしわで)たちは盞(うき)を忘れた。そこで、時の人は、その盞を忘れた所を名付けて浮羽(うきは)といった。
 今、的(いくは)というのは訛ったものである。昔は、筑紫の人々は、盞を名付けて浮羽といっていた。

 

 

 浮羽では、盞(うき)を忘れたことにより浮羽(うきは)の地名が起こり、それが訛って的(いくは)となった。ところが地元伝承では、これとは逆で奈良時代、浮羽一帯は筑後国生葉郡(いくはのこおり)とされていたが、それ以前は的邑(いくはのむら)と呼ばれ、この的が転じて浮羽となったとする、日本書紀の記述と逆の地元伝承もある。
 そして巡幸経路が八女から直接北上せず、内陸部の浮羽に移動しているのは、この時期まだ筑後平野はまだ形成されておらず、有明海が内陸部まで入り込む湿地帯であった。そのため玄界灘に面した北部九州へ向かうには、耳納連山の南側に沿って黒木や星野村、そして、このルート上の要所であった浮羽を経なければ北部九州への移動はできなかった。また日田方面から北部九州へ移動する際にも浮羽を通過しなければならず、浮羽は陸上交通における要衝の地であった。

 そのため浮羽の重要性から、中央豪族の的臣が配置され、筑後川に沿って的臣歴代の、月岡、塚堂、日岡古墳(装飾古墳)、と続く若宮古墳群(五世紀中頃から六世紀始)が遺されている。中でも最初に築かれた月岡古墳には近畿の巨大古墳と同じ長持形石棺に、大量の甲冑や朝鮮半島からの品々が納められていた。的臣は朝鮮半島で活躍した葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)の系譜に連なり、大和王権に直結する有力豪族である。 

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           月岡古墳          田主丸大塚古墳              浮羽島

 この若宮古墳群に後続するするのが、田主丸町大塚古墳(全長103m、後円部の直径60mの前方後円墳・六世紀後半)と考えられるようになった。この時期としては全国屈指の大きさであるが古墳については不明な点が多く、古墳から200m下った所に立派な石灯籠が配置された、古社である石垣神社が鎮座している。

 古墳と神社には密接な関係があり、神社の起源は古墳斎祀や墓守が居た場所であることを考えると、石垣神社は田主丸大塚古墳に相応しい神社である。また大塚古墳については後円部の石積みに、石垣状葺石といった特徴があり、神社名の石垣との間に何らかの関係が考えられ、石垣神社の祭神から大塚古墳の被葬者について、何らかの手がかりが得られないだろうか。

 この古墳の被葬者について、日本書紀の応神や欽明紀に的臣(いくはのおみ)という人物が、朝鮮半島の任那日本府(みまなにほんふ)で重要な官人として登場してくる。この的臣の墳墓が、田主丸大塚古墳と考えられるようになった。大和王権と密接な関係を持ち朝鮮半島とも自由に行き来できる有力豪族であった。

 磐井戦争後、筑後地域における主だった豪族は潰れてしまったと考えられていたが、古墳の大きさが規制される中、磐井の膝元でこれだけ大きな古墳が遺せたのは、的臣の持つ朝鮮半島での外交能力にあったと考えられる。大和王権は的臣の持つ外交手腕を必要とし、それを高く評価しての古墳の大きさであろう、それだけ外交に秀でた豪族であった。              

  そして、浮羽島が行宮の場所と伝えられ、写真左側の耳納連山の麓に装飾古墳の珍敷塚(めずらしづか)古墳をはじめとした多くの古墳が遺されている。しかし、かつては浮羽地域全体で2千基の古墳が存在したともいわれ、戦後の農地の開発にともない多くの古墳が消滅した。                  
  所在地  福岡県うきは市浮羽町畑田  浮羽島
 連絡先 うきは市立吉井歴史民俗資料館
  TEL 0943(75)3343

  

 

 

     

                      第四十九話 景行大王陵

 

 

 十九年の秋九月(あきながづき)の甲申(かふしん)の朔(つきたち)にして癸卯(きぼう)に、天皇、日向(ひむか)より至(かへりいた)りたまふ。
 二十年の春(はるの)二月の辛巳(しんし)の朔にして甲申(かふしん)に、五百野皇女(いほののひめみこ)を遣(つかは)して、天照大神(あまてらすおほみかみ)を祭(まつ)らしめたまふ。

 

 十九年秋九月二十日に、天皇は日向から還御された。
 二十年の春二月四日に、五百野皇女を派遣して、天照大神を祭らせられた。

 

 

 景行大王陵とされている渋谷向山古墳(全長310m・四世紀後半)は、九州各地で訪れたどの古墳よりも壮大且つ荘厳であった。この巨大古墳の被葬者は、実際のところ誰なのか不明であるが、大きな力を持った大王であることには間違いなく、列島統一に乗り出して行った王に相応しい山陵(みささぎ)である。
 この様な前方後円墳は、近畿でも中国や瀬戸内あるいは九州でも同じで、この事は共通の約束事に基づいて埋葬が執り行われ、広範囲に政治的な連合関係が成立していたことを示している。この時、政治的連合(大和王権)が常に考えていたことは、先進技術と武器として、あるいは農具としての鉄の取得にあった。

 その鉄は、主に朝鮮半島南部で生産され、政治的連合ができる以前より、歴史的に地理的にも関係の深かった北部九州を通じて入手していた。ところが三世紀半ばに、魏を後ろ盾とし北部九州をまとめていた邪馬台国の卑弥呼が亡くなると、それまでの秩序が崩壊し、そのため北部九州を通じて鉄を入手していた地域では入手が困難となった。

 そのときの様子が魏志倭人伝に、卑弥呼が死去した後、男王が立ったが治まらず千人の死者をだすほどの殺し合いになったと記され、その混乱ぶりがうかがえる。この時期の北部九州の遺跡から出土する鏡片は、鉄を取得する際に必要なネットワークの証であったが、秩序の崩壊により意味を持たなくなり廃棄されたものである。

 そこで、北部九州を介さず鉄を直接入手するため、大和を盟主とし播磨、吉備、あたりが一つのまとまりを形成し、北部九州の、奴国(福岡市)、伊都国(糸島地方)、不弥国(糟屋郡宇美町)などを制圧するための政治的連合が成立した。そのシンボルとして前方後円墳が考え出され、奈良県桜井市の巻向遺跡内に存在する箸墓古墳は、政治連合の証として最初に創出された王墓としての前方後円墳であり、その築造時期も卑弥呼の亡くなった時期と大差ないであろう。

 そして四世紀に入ると、前方後円墳が多く分布する、讃岐、豊前、日向といった地域でも、大和を中心とする鉄を取得するための政治連合に加わり、これらの政治連合が神話や鏡あるいは共通の祭祀を通じて、強い繋がりをもった集団へと変貌したとき、地方連合の集団から大和王権へと脱皮した。
 この時期の古墳には、初期大和王権中枢の工房で量産された、三角縁神獣鏡が副葬されている。そして、この鏡が近畿圏を中心に列島各地の古墳から出土することから、初期大和政権による全国支配の一環として各地に配布されたと考えられる。
 その大和王権発祥に地と見られているのが、前期古墳が集中する大和盆地南東部で、この一帯は古墳規模の大きさや、その数において列島内で他に類をみない。奈良県天理市にある渋谷向山古墳は、柳本古墳群を構成する古墳の一つで、その大きさは全国八位の巨大さである。かつては景行大王陵が行燈山古墳、渋谷向山古墳は崇神大王陵とされていたが幕末時、両古墳の被葬者が入れ替わった。   

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         渋谷向山古墳                           三角縁神獣鏡
                                                                     (熊本県宇土市 城ノ越古墳出土)

       所在地  奈良県天理市渋谷  渋谷向山古墳  
  連絡先  櫻井市埋蔵文化財センター
  TEL  0744(42)6005

  

 

 

                    巡行各地において最初に築かれた前方後円墳の一覧
 

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                                                       あとがき

  

 日本書紀の景行大王による九州遠征について、記された巡幸経路とその地に最初に大和政権が入ってきた証である、前方後円墳古墳の築造時期の関係を一覧表にし考察てみた。前方後円墳はドアの鍵型をした、大和王権が三五〇年間にわたり拘り続けた首長墓としての墳墓形式である。
 一覧表から解るように、全体的に見て最初に前方後円墳が出現するのが、豊前や日向など九州東側で、三世紀後半~四世紀始と最も早い。それに対し有明海に面した九州西側は、四世紀後半~五世紀始めの築造で東側に比べ一世紀近く遅れる。その後、内陸部の阿蘇や球磨にも、五世紀前半~五世紀中頃にかけて築かれるようになる。
 この様に古墳の築造年代には、三世紀後半から五世紀中頃にかけ一世紀半の開きがあり、九州平定に百五十年を要した事になる。これは、とても一人の大王による遠征とは考えられず、この間、景行大王でないにせよ大和の武人による遠征が波状的に行われたのであろう。
 次に遠征経路を現在の九州地図に落としてみると、古墳の築造年代順と巡幸地の移動順路が重なり、不都合を生じることもなく、大和王権による九州内への勢力を扶植していく過程を示している様に見える。また直入地域において具体的に記された王軍の移動経路については、律令時代における官道に先行して、各地を結ぶ移動ルートが存在していたのであろう。
 この様な巡幸経路に対し、日本書紀に記された内容は年代的にも大きく異なり、豊前地域が弥生時代終期から古墳時代初めにかけての最も古い時期のものであるのに対し、次の南九州では律令時代に入ってからの南九州の状況をベースにして記したもので、非常に新しい時期のものである。最後の有明海沿いの地域においても、筑後地域を中心に記述の年代は景行大王の治世から大きく下り、概ね六世紀始めを相前後する時期のもと考えられる。

 娑婆から豊前地方
 それでは、具体的に日本書紀に記された王軍の動きについて見ていくことにしよう。まず九州への渡海には、娑婆津から出港し豊前地域に着船した様であるが、このルートは筑紫磐井戦争(527年)における平坦基地として、大和政権により急きょ娑婆の地に開設されたもので、娑婆津が開港した六世紀以降の渡海ルートである。そのため景行大王の治世である四世紀代に瀬戸内海西部地域の制海権を持っていたのは、柳井水道(柳井市)を根拠地とする熊毛王であり、娑婆津は開港していなかった。従って当時の渡海コースとしては柳井水道を出船後、海岸に沿って下関近くまで進み、そこから一気に九州の表玄関である草野津に向かったと考えられる。長峡県(行橋市)は豊前地域の中心地でもあり、草野津が当時の近畿地方と九州を繋ぐ重要港であった。
 その後、渡海コースが柳井水道から娑婆に移ると九州川側の着船地も、現在のような動力船のなかった時代、船による移動には潮の流れや風任せであり着船地も一定ではなかった。そのため豊前海に面した、行橋市から宇佐市までの海岸線のどこかに着船することになり、そこから目的地まで海岸沿いに進めばよかった。その後、九州地区の統治組織「大宰府」(遠の朝廷)が置かれ、太宰府に向かう航路が中心となると、当時、椎田(築上町)から香春神社の前の道(田河道)通り太宰府に繋がる往還 が存在し、そのため娑婆津を船出すると椎田湊を目指す様になった。その際、行橋から宇佐までの海岸線には10㎞前後の間隔で港(湊)が存在し、北から草野津(行橋市)、椎田湊(築上町)、八屋浦(豊前市)、間分浦(中津市)、宇佐湊(宇佐市)のどこかに着船することができた。遭難した遣新羅使が着船したのが間分浦(中津市)であり、太宰府に左遷された菅原道真も、高塚の浜(築上町)漂着することができたのである。 

 その娑婆の地には初代県主として、桑山塔ノ尾古墳が六世紀前半に築かれ、これに関して書紀の神功紀に、『娑婆の県主の祖である内避高国避高松屋種』の名がみえる。以後歴代県主としての大型前方後円墳が防府平野には展開することになるが、これら前方後円墳の築造年代が六世紀以降の古墳であるのに対し、景行大王の治世と考えられる四世紀代は、あまりにも開きがあまりにも大きく、遠征自体が怪しくなってくる。

 これに対して、皇軍が娑婆津を出港後、最初に着船したい豊前地方の海岸沿には、四世紀初めに築造された九州で最も早い時期の、石塚山、赤塚、七ツ森古墳といった大型前方後円墳が遺されている。これらの古墳は地政学的に瀬戸内海航路の突き当たりに当たり、そのため早い時期から初期大和政権との接触があったのであろう。豊前地方の初期古墳の存在はその事を示しており、石塚古墳を始めとした海岸部の古墳と、九州山地中央部の七ツ森古墳の築造年代が共に四世紀初めと考えられることから、大和王権は九州征圧に当たり、まず始めにこの地域を抑えると、そこを橋頭堡として一気に九州山地の中央部まで攻め込み、七ツ森古墳を遺し三人の土蜘蛛の居た稱疑野を制圧していったと考えられる。

 直入地域

 なかでも、今回の遠征で初めての本格的な戦いが行われた直入では、当時白丹で阿蘇黄土(ベンガラ)を巡る交易が行われ、それによる大きな収入をもたらす交易を大和政権が抑えようとした事にあった。丹(朱)は、神聖なものとして、弥生時代末期から古墳時代前期をピークにして古墳内部に塗られ、この時期、菅生台地でも三人の土蜘蛛が阿蘇黄土の交易を独占し、その結果、菅生台地を覆うほどの大集落を形成していた。しかしベンガラが次第に用いられなくなると、菅生大地からも人々が姿を消していくことになる。

 そして、五世紀になると朝鮮半島から豊前地方への移住者も多くなり、この地域の代表的神社である木原神社の主祭神には、応神や仁徳が含まれていることから、半島からの渡来者により開発されたと考えられる。また点在する古墳の築造年代を見ると、ほとんどが五世紀中頃であることから、この時期から本格的に開拓が進められたのであろう。書紀に記された、かつての直入地方の地名が現在でも多く遺され、かつての直入の範囲は、豊後国志のいうところの直入三神の比定神社の位置からして、現在の竹田市のほぼ全域、および由布市の南部や豊後大野市の一部を含む広範囲な地域を指していた。そして「豊後国風土記」に直入郡には四つの郷(さと)があったと記され、この風土記と「和妙抄」の記述から、四つの郷とは柏原郷と救覃郷、それに三宅郷と直入郷で、律令時代の直入郡はこの四つの郷から成り立っていた。   
 そして豊後国のなかでも直入郡は、他の郡に比べると、ほとんどが山間部で田数が桁違いに少なく、奈良時代の「豊後国正税帳」に記された、直入郡の穀物倉に納められた稲穂の量が他郡に比べ極めて少なかったことが分かる。また郡内には阿蘇野や禰疑野、宮処野など「野」の字が付く地名が多く見られ、古代の直入郡は、「野」と呼ばれる久住連山及び阿蘇外輪山から広がる 広大な高原地域であった。そのためこれら地では、渡来系の人々による草地を利用した牧馬が行われていた。これに関して、阿蘇外輪山での原野を囲った二重牧(ふたえまき)と呼ばれた馬牧は、特に優れた馬を生産する牧として有名であった。なお、現在でも阿蘇市赤水に二重峠の地名が遺されている。 

 また牧の他に、豊後国風土記に、昔この地に真っ直ぐに伸びた大きな桑の樹があったことから直桑(なおくわ)となり、それがが訛って直入となった。と記され、一見こじつけ地名説話の様に見えるが、直入で桑の樹が植えられていた事が分かり、かつての直入郡内には桑原や桑の付く地名が多々見られる。

 そして直入郡では、現在一部を除き多くが棚田となっているが、当時は灌漑用水の得にくい所では畑地として利用され、養蚕用の桑が植えられていたのであろう。また養蚕や機織りの技術を伝えたのも渡来人であったと言われ、直入は朝鮮半島からの渡来人により開発された地域であった事が改めて分かる。

 風土記に見られる様な地名説話から、丘陵地でも栽培できる桑を植え、彼らが列島に伝えた養蚕や機織りが、水田の乏しい郡を支える糧としていた。そして、律令以前においては、中央豪族が各地に保持していた、直入の様な地から得られる収入が中央豪族にとっての生命線であり、政治的権力の保持を可能とした。
 

 日向地域

 そして豊前地域から次の巡幸地である日向までは、距離的にも離れているうえ陸路なのか海路によるものか書紀に記述がない。また日向での記述は、物語と思えるような記述となっているのは、八世紀における薩摩、大隅国の成立に伴い、南九州の人々(隼人)による一斉蜂起といった政治状況を背景として記されたからであろう。そのため豊前地域と南九州とでは、記された時代背景や内容を異にし元々、別な伝承や出来事を一つに繋ぎ合わせたと考えられる。
 ところで、日向における初期古墳の生目古墳群(四世紀・宮崎市)なかには、生目一号墳のように、柳畿内の箸墓古墳の2分の1の大きさの相似形と言われるものも存在し、その出現時期も同時期の四世紀初めに遡り、早い時期から大和との広範な政治的繋がりがあった事は間違いないようである。そして、日向に移動してからの六年間の長期にわたる逗留も、宮崎市の生目古墳群に見られる様な、早期における和王権を盟主とする政治的連合に加わっていた事を示すもので、この時期両者の関係は友好的であった。

 その後、五世紀になると日向から多くの女性が入内し、それに伴い西都原台地に男狭穂・女狭穂塚といった大型古墳が出現することになる。これら大型古墳の築造には、大和から古墳や埴輪作りの技術集団が派遣され、その時に彼らが目にした切妻形の住居は、当時日本列島のほとんどが竪穴式住居であった事を考えると、非常に珍しい建造物に見えたのであろう。その結果、全国で初めて出土した子持家形埴輪や多くの切妻家形埴輪が製作され、これらの埴輪は現在国立博物館で復元保管されている。これらの切妻家形埴輪は、古代中国における江南地方の切妻住居に類似しており、日向とこの地域との関連性をうかがわせる。これらの両地域の共通した文化は縄文時代から続く、貝の道と呼ばれた南西諸島を伝い、かつて呉と呼ばれた地方から日向地域への移住が行われてきた証拠ではなかろうか。

近年、多くの副葬品を有する地下式古墳が発見され、その出土品の分析結果から大和王権とは友好関係にあった事が分かってきた。元々、熊襲や隼人いった固有名詞が使われる様になったのは、律令時代にはいってからで、そのため本来の目的地である南九州において、景行大王や熊襲・隼人に関する伝承や史跡がほとんど見られないのも肯ける。
 そして日向で六年過ごすと、こんどは南九州から北上を始め、有明海に沿って順次、筑後の浮羽まで巡幸することになる。最初、大和王権による九州への勢力浸透は北部九州から南下していったと考えていたが、実際にはその逆で、南から北上しているのは意外であった。ところで日向地方では、文化が南から北上していったとの伝承もあり、江南地方から南西諸島をつたって南九州へ伝わった当時、最先端の技術や文化が、皇軍と同様に北上していったのであろう。

  有明海沿岸地域

 次に明海沿岸について見てみると、明海沿岸一帯で前方後円墳が出現する五世紀代になると、それまでの北部九州に替わり筑後を中心とする勢力が、朝鮮半島や中国南部と直接交易するようになる。その結果、大和王権とは異なる新たな豪族間のネッワークが構築され、銀象嵌大刀で知られる江田船山古墳から、同型鏡が多い同向式神獣鏡(南朝系)が出土することになる。この鏡は近畿地方を中心に東は北関東から九州にかけて見つかっており、この様な広範囲な鏡の分布は、新たな豪族間の繋がりや、東シナ海を交易圏とする物資の交流が存在していたことを示している。
 江田船山古墳出土の金銅製装身具は、朝鮮半島の百済から持ち込まれたものと考えられ、その際の航路として、菊池川河口から有明海に乗り出せば左回りの潮流に乗り、諫早湾に流れ着くことになる。そこから二つの河川を繋いだ運河を利用し、大村湾に移動すれば島原半島を通過することなく、朝鮮半島や中国南部の呉辺りと行き来することができた。この大村湾を利用する航路は五世紀になると、筑後と朝鮮半島や大陸とを結ぶ重要な航路となり、大村湾の東岸に、ひさご塚古墳を始めとした四基の前方後円墳が築かれた。

 この様に活発に活動していた玉名(玉杵名)には、有明海沿岸で唯一土蜘蛛がいたと記され、出雲から伝来した砂鉄を使った『多々良製鉄技法』が行われていた。その時期は、中国山地の山間で発見された最古の多々良製鉄遺跡が六世紀中頃である事から、それ以後の事と考えられる。
 ところが、玉名を始めとした熊本県北部出土する鉄器の年代は、六世紀といったものではなく玉名市天水町尾田にある齋藤山貝塚からは、日本最古の鉄斧が見つかっており、その年代は縄文終末期である。また玉名郡岱明町の下前原遺跡から出土した、「鉄滓」は、列島最古の精錬滓と考えられ年代も弥生前期であった。この様に熊本県北部は鉄と縁の深い地域であり、鉄に関しては重層的である。なお鉄滓とは、砂鉄から鉄を取り出す際の副産物で、溶解した鉄の表面に浮かぶ滓(かす)のことで、製錬スラグとも呼ばれる。
 日本列島における製鉄の開始時期には、弥生時代と古墳時代説があり長い間論争が繰り広げられてきたが、現在でもはっきりしたことは分かっていない。これらの製鉄法については、鉄鉱石や砂鉄を使った場合であり、阿蘇黄土から鉄を取り出す場合は、技術的に砂鉄や鉄鉱石のような高温を必要としせず、これらに比べると容易に鉄を取り出せた。そして玉名郡の下前原遺跡(弥生後期)から、はっきりしないが製鉄スラグが出土し、弥生後期には既に製鉄が行われていたと考えられる。

 その後、玉名から阿蘇へ入ると、カルデラ内は遠くまで続く草原であったと記され、その原因は阿蘇黄土から鉄を取り出す際に、大量の木炭を使用する事にあったと考えられる。それまで手つかずの森であったカルデラ内の森林が、木炭用に伐採し尽くしされ、そのためカルデラ全体が草原化していたのである。

  筑後地域

 次の筑後では、八女を本拠地とし九州最大の勢力を誇った筑紫君が、九州における盟主の座にあった。朝鮮半島とも直接繋がりを持ち、火国とも姻戚関係にあり、また豊後風土記に、磐井は殺されず求菩提山辺りに逃げ延びたと記されるなど、豊国とは強い関係を持っていた。この様な磐井を中心とした有明海沿岸の動向に対し、機をみて進行して来たのが、磐井の乱(五二七年)と呼ばれる、九州における古代史上最大の戦いである。磐井は一般に筑紫君と記され国造とされるが、実際には北部九州を代表する王であり、磐井の乱と呼ばれる古代史上最大の戦いを『磐井戦争』と表記した。そして磐井の敗戦の結果、この地域に大きな政治的変動をもたらし、大和王権が九州に打ち込んだ楔として大宰府が設置され、国造の配置など急速に九州支配を押し進めることになる。 
 また筑紫政権の象徴であった、盾、壺などの石器(5世紀)や石人、石馬(6世紀)に代表される石の文化は、石を神聖化する南九州(隼人)の文化が影響を与えたものであろう。水沼に付いて景行紀に、『景行大王の次妃である襲武媛(そのたけひめ)が生んだ、国乳別(くにちわけ)皇子が水沼の始祖である』と記され、襲武媛とは、その名から南九州出身の女性であることが分かる。そのため水沼の始祖である国乳別は、航海技術に優れた南九州人(隼人)と同族であり、南九州とは深い繋がりがあった。そう考えると、水沼が有明海に勢力を持つ海洋性民族であるのも理解でき、その時期も国乳別皇子の『別』の称号から、五世紀代の人物と考えられる。
 その後、水沼は磐井戦争の敗戦により、三潴から遠賀川河口域の水巻(みずまき)へ移住を余儀なくされ、そのため水巻の地名は、三潴来(三潴から来た)に由来すると考えられる。移住地の水巻が、遠賀川河口右岸に沿った地域であることから、朝鮮半島に対する強化策としてなのか、あるいは筑後川の河川改修で培った技術を見込まれての移住であったとも考えられる。

その文化も磐井戦争の敗戦により、装飾古墳として地下に納められるようになった。北部九州で盟主で輝かしい歴史を持つ筑紫磐井の存在は、新たにこの地方を統治していくうえで認められず、消し去る必要があった。そのため日本書紀に一連の遠征記事が織り込まれたのである。 

 そして、浮羽から唐突に大和に帰還していることから、本来の目的地は浮羽であったのではなかろうか。浮羽ではそれまでとは趣を異にし、盞(杯)を忘れたことによる地名説話となっている。想像力を豊かにすれば祝杯を挙げているのは物部氏ではなかろうか。物部氏は磐井戦争を鎮圧したことにより九州、特に筑後地域で大きな力を得た豪族で、生葉郡の物部郷(現在不明)をはじめ、筑後地域には物部に繋がる豪族が多く、この地域への勢力の浸透がうかがえる。 
 磐井戦争は九州各地に大きな影響を及ぼし、 宗像が祀る三女神は元々、地方神であったが磐井戦争後、海路の重要性が増すと国家神となり九州で唯一の神郡が宗像に置かれた。それに伴い同じ海人族の水沼が宗像へ配属され、古事記に、『水沼は八女津媛と共に宗像が祀る三女神も祀る』とあるのは、水巻に移動してから宗像の配下として共に沖ノ島祭祀に関わり、朝鮮半島との航海に携わったためと考えられる。

 最後に

 そして大王が列島各地を平定し巡幸することは、各地の豪族を大王家に繋げることになり、豪族にとっても大王家と姻戚関係を持てば箔が付き、周りの豪族に対しても押さえが効くというものである。その事は大王家にとっても望むことであり、地方豪族の大王家への一本化は大和王権による列島統一を意味した。
 日本書紀における、景行大王による遠征記事は、それまでの豪族から律令制度という新たな政治体制の大波にもまれ、人々は自分のアイデンティティ(居場所感覚)に動揺していた。そこで時の中央政府により、人心の安定や地域と大和朝廷への結束を強めるため、『国の物語』として一連の遠征記事が用意されのであろう。
 なお古事記には景行大王による九州遠征記事は存在しない。